ドジャースの顧問弁護士からドジャースのオーナーへ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/11/06 08:33 UTC 版)
「ウォルター・オマリー」の記事における「ドジャースの顧問弁護士からドジャースのオーナーへ」の解説
1942年、ウォルター・オマリーはブルックリン・ドジャースの顧問弁護士に任命され、翌年には球団の株を手に入れて経営に加わることになる。 1943年にはセントルイス・カージナルスからブランチ・リッキーが球団社長兼ゼネラル・マネージャー(GM)として招聘されるが、オマリーはリッキーの球団運営を快く思っていなかった。リッキーはカージナルスのファーム・システムを開発したことで知られ、また1947年に大リーグ史上初の黒人メジャーリーガーのジャッキー・ロビンソンと契約し人種の壁を破ったという進歩的な考えの持ち主であったが、これらはオマリーの考え方とは相容れないものだった。 当時ドジャースの株をオマリー、リッキー、そしてもう一人の株主とで平等に所有していたが、その一人のが亡くなるとオマリーは未亡人に対してその株を自らに売るように説得し、リッキーの追放を画策したのだった。リッキーも同時期ピッツバーグ・パイレーツから誘いを受けており、結局オマリーに株を売り渡して退団していった。1950年、こうしてドジャースの経営権を手に入れた。
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