デビルレイズ・レイズ時代とは? わかりやすく解説

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デビルレイズ・レイズ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/30 13:10 UTC 版)

岩村明憲」の記事における「デビルレイズ・レイズ時代」の解説

3年総額770ドル4年目年俸485ドル球団オプション)で契約結んだ2007年当初守備位置が決まらず一塁手用外野手用グラブ持参してスプリングトレーニングに臨むが、三塁手として起用される。開幕当初は6番で起用され、9試合連続安打スタートを切り、打率.339・出塁率.470などと好調だったが、4月24日に右脇腹痛め故障者リスト登録された。復帰後は主に1番打者として起用され本塁打日本時代比べて激減したが、チームバッティングに徹する姿勢貫いて若い選手意識改革もたらした評された。シーズン終盤には、エバン・ロンゴリアが翌シーズンから三塁を守るチーム方針から二塁手へのコンバート告げられオフには土橋勝征から二塁守備指導受けた2008年スプリングトレーニングでは二塁守備での塁上接触プレーなどに苦戦した失策はなく、打撃でも19試合出場打率.340、2本塁打出塁率.421、1盗塁成績を残す。4月打率.210、1本塁打出塁率.300低調だったが、5月3日ボストン・レッドソックス戦では日本人左打者では初となるグリーンモンスター越えの左本塁打打ち同月下旬には5試合連続マルチ安打記録するなど復調し打率.333、2本塁打出塁率.371を記録6月3日レッドソックス戦ではMLB通算4本目初回先頭打者本塁打記録6月5日レッドソックス戦ではレイズ先発ジェームズ・シールズココ・クリスプへの死球から始まった乱闘に「グラウンドでは野球をするもの。でも味方どうこうされるの黙ってられない。止めなければならなかった」と参加し、3試合出場停止処分受けた24日フロリダ・マーリンズ戦でNPB/MLB通算200号本塁打達成8月30日ボルチモア・オリオールズ戦でメジャー移籍後初のシーズン150安打到達8月に7連敗喫したが、監督ジョー・マドンに緊急ミーティングを開くよう直訴し、中堅手B.J.アップトンには守備教えたりするなどして若手の多いチーム引っ張り9月20日ミネソタ・ツインズ戦の勝利チーム球団史上初のポストシーズン進出決定し26日初の地区優勝決定するこの年タンパ一帯では、スランプに陥っていたB.J.アップトンゲン直し岩村ソフトモヒカン真似たことをきっかけに、モヒカンヘアーの大ブーム巻き起こったポストシーズンではシカゴ・ホワイトソックスとのディビジョンシリーズ第2戦の5回、カール・クロフォードが「今日アキホームラン球団史上最高の一打だと思う」と語る逆転2点本塁打打ち勝利最終戦までもつれ込んだレッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦まで7試合連続安打記録し、第4戦ではレギュラーシーズン中は封印していたグラブトスでの併殺見せるなど攻守活躍しチームワールドシリーズ進出。しかしフィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは第5戦で敗退した2009年開幕前の3月開催され第2回WBC日本代表選出された。同大会では主に9番・二塁手として出場し内野リーダーとしてチーム引っ張った1次ラウンド無安打に終わるが、2次ラウンド初戦キューバ戦で2安打する復調し準決勝アメリカ合衆国戦では4回裏、日本4点目となる適時三塁打を打つ。決勝韓国戦では、10回表に左前安打で一、三塁繋ぎイチロー決勝点となる2点適時打呼び込み日本代表チーム最後ホーム踏んだ決勝点となったホーム踏んだのは内川聖一)。全9試合で、打率.286、出塁率.417、1盗塁、7得点得点7はイチローとともにチーム最多だった。 レギュラーシーズンではB.J.アップトンを1番打者とするチーム方針から開幕直後は9番で起用され5月24日フロリダ・マーリンズ戦まで打率.310、本塁打なし、出塁率.377と例年上の好調見せていたが、その試合の8回に二塁守備についた際、一塁走者クリス・コグラン激しスライディング受けて左膝を負傷し途中退場精密検査結果、左膝前十字靱帯断裂診断された。故障当初シーズン中復帰絶望視されていたが、6月22日手術受けた際に部分断裂であることが判明8月29日デトロイト・タイガース戦で復帰し翌日試合では1号本塁打打ち、「今季ホームラン0かなと思っていたんですけど、打てよかったです」とコメントした9月にはチーム11連敗喫しポストシーズン出場逃した

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デビルレイズ・レイズ時代

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/01 03:52 UTC 版)

B.J.アップトン」の記事における「デビルレイズ・レイズ時代」の解説

2003年マイナーリーグ(A級とAA合計)で130試合出場し打率.297、8本塁打62打点出塁率.388、OPS.819、40盗塁記録サウスアトランティック・リーグオールスター出場した他、レイズ内のマイナーリーグ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞遊撃手として56個もの失策犯したが、同リーグ監督選のベスト・ベースランナーとベスト・インフィールド・アーム、No.1有望株3部門に選定2004年は、ベースボール・アメリカ誌の「野球界有望な選手」として2位ランクされAA級とAAA合計98試合出場して打率.315・14本塁打51打点出塁率.406・OPS.911・20盗塁着実に成長遂げる。守備では35失策記録したものの、同誌が選ぶマイナーリーグ・オールスター代表チーム選出8月1日メジャー昇格し、翌2日ボストン・レッドソックス戦において9番・指名打者スタメン起用されティム・ウェイクフィールドからキャリア安打となる右前安打放つなど、3打数1安打1四球2出塁1得点の好結果デビュー戦飾った19歳でのメジャー・デビュー球団史最年少であり、ルー・ピネラ監督をして「A-ROD再来」と言わしめた。 2005年メジャー出場終わったものの、AAAダーラム・ブルズ139試合出場打率.303、出塁率.392、OPS.882、44盗塁好成績挙げ7月10日にはオールスター・フューチャーズゲーム出場53個もの失策犯したが、ベースボール・アメリカ誌選のマイナーリーグ・オールスター2ndチームにも選出されインターナショナルリーグのモスト・エキサイティング・プレーヤーに選定される2006年AAAダーラム106試合出場して出塁率.374、46盗塁(両リーグ最多)。33失策記録したが、7月12日にはインターナショナルリーグオールスター出場マイナーでは遊撃手であったが、8月1日メジャー再昇格果たしてからは三塁手コンバート20日22日に左肩を故障したこともあり、50試合に留まった。 2007年シーズン開幕戦から9番打者として先発出場果たしポジション岩村明憲加入もあって二塁手を守る。5月27日6月5日にはキャリアハイとなる1試合4安打放ったが、6月8日試合走塁中に左足痛めて1か月戦線離脱7月13日復帰してからは、「B.J.は攻撃専念させたい」との球団フロント意向によって中堅手コンバート復帰間もない15-21日にかけて6試合中4試合で3安打放ち、特に20日には自身初の1試合2本塁打叩いた。この活躍により、プレーヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞(16-22日の週)。8月22日松坂大輔から決勝点となる2点本塁打をライトスタンドに叩き込み24日からは4番定着故障見舞われたものの、初め規定打席クリアし、23歳以下ではMLB史上5人目となる打率3割、20本塁打20盗塁達成ボール見極め上達し、更に長打率リーグ9位、外野補殺数は同6位と飛躍シーズンとなった2008年開幕当初4番座っていたが、4月16日からは3番7月20日からは2番務めた8月以降3度怠慢プレー理由ベンチ下げられる失態犯し9月には左足負傷により10試合欠場したが、シーズン通算では自己最多145試合出場した上、リーグ2位の盗塁数(44)と補殺(16)とレンジ・ファクター(2.84)、同4位の四球数(97)、同7位の出塁率(.383)をマーク身体能力出塁能力両面において高いパフォーマンス発揮したポストシーズンでは16試合出場して66打数19安打打率.288・7本塁打16打点出塁率.333・長打率.652・6盗塁ポストシーズンにおける単年7本塁打アメリカンリーグタイ記録であり、球団史上初となるリーグ制覇の原動力になったワールドシリーズでは1勝4敗でフィラデルフィア・フィリーズ敗北したが、レイズ24盗塁それまで21盗塁塗り替えるポストシーズン新記録となったシーズン終了後11月11日に左肩の手術を受けている。 2009年は、開幕から1週間遅れの4月13日(対ニューヨーク・ヤンキース戦)から戦列復帰し打順は1番になった。そして3打数1安打3四球4出塁2盗塁2得点インパクト与え、「彼は一段と進歩成長している、新し役割見事に順応している」とジョー・マドン監督を感心させた。マドンは更に「彼はリッキー・ヘンダーソンルー・ブロック比肩する存在になれるかもしれない」と述べアップトンのリードオフとしての攻撃能力一目置いている。10月2日ヤンキース戦で球団史上初のサイクル安打達成した。第1打席走者一掃三塁打放つと、3回の第2打席左中間二塁打。4回の第3打席では右中間2点本塁打。さらに5回の第4打席右前安打放ち球団初のサイクル安打達成した。8回にも左前安打放ち、この試合5打数5安打6打点記録した2012年オフFAとなった

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