デビルレイズ・レイズ時代
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「岩村明憲」の記事における「デビルレイズ・レイズ時代」の解説
3年総額770万ドル(4年目は年俸485万ドルの球団オプション)で契約を結んだ。 2007年、当初は守備位置が決まらず一塁手用や外野手用のグラブも持参してスプリングトレーニングに臨むが、三塁手として起用される。開幕当初は6番で起用され、9試合連続安打のスタートを切り、打率.339・出塁率.470などと好調だったが、4月24日に右脇腹を痛め故障者リストに登録された。復帰後は主に1番打者として起用され、本塁打は日本時代に比べて激減したが、チームバッティングに徹する姿勢を貫いて若い選手に意識改革をもたらしたと評された。シーズン終盤には、エバン・ロンゴリアが翌シーズンから三塁を守るチーム方針から二塁手へのコンバートを告げられ、オフには土橋勝征から二塁守備の指導を受けた。 2008年はスプリングトレーニングでは二塁守備での塁上の接触プレーなどに苦戦したが失策はなく、打撃でも19試合の出場で打率.340、2本塁打、出塁率.421、1盗塁の成績を残す。4月は打率.210、1本塁打、出塁率.300と低調だったが、5月3日のボストン・レッドソックス戦では日本人左打者では初となるグリーンモンスター越えの左本塁打を打ち、同月下旬には5試合連続のマルチ安打を記録するなど復調し打率.333、2本塁打、出塁率.371を記録。6月3日のレッドソックス戦ではMLB通算4本目の初回先頭打者本塁打を記録。6月5日のレッドソックス戦ではレイズ先発のジェームズ・シールズのココ・クリスプへの死球から始まった乱闘に「グラウンドでは野球をするもの。でも味方がどうこうされるのも黙ってられない。止めなければならなかった」と参加し、3試合の出場停止処分を受けた。24日のフロリダ・マーリンズ戦でNPB/MLB通算200号本塁打を達成。8月30日のボルチモア・オリオールズ戦でメジャー移籍後初のシーズン150安打に到達。8月に7連敗を喫したが、監督のジョー・マドンに緊急ミーティングを開くよう直訴し、中堅手のB.J.アップトンには守備を教えたりするなどして若手の多いチームを引っ張り、9月20日のミネソタ・ツインズ戦の勝利でチームは球団史上初のポストシーズン進出が決定し、26日に初の地区優勝も決定する。この年のタンパ一帯では、スランプに陥っていたB.J.アップトンがゲン直しに岩村のソフトモヒカンを真似たことをきっかけに、モヒカンヘアーの大ブームが巻き起こった。 ポストシーズンではシカゴ・ホワイトソックスとのディビジョンシリーズ第2戦の5回、カール・クロフォードが「今日のアキのホームランは球団史上最高の一打だと思う」と語る逆転2点本塁打を打ち勝利。最終戦までもつれ込んだレッドソックスとのリーグチャンピオンシップシリーズでは第3戦まで7試合連続安打を記録し、第4戦ではレギュラーシーズン中は封印していたグラブトスでの併殺を見せるなど攻守に活躍し、チームはワールドシリーズに進出。しかしフィラデルフィア・フィリーズとのワールドシリーズでは第5戦で敗退した。 2009年は開幕前の3月に開催された第2回WBCの日本代表に選出された。同大会では主に9番・二塁手として出場し、内野のリーダーとしてチームを引っ張った。1次ラウンドは無安打に終わるが、2次ラウンドの初戦キューバ戦で2安打すると復調し、準決勝のアメリカ合衆国戦では4回裏、日本4点目となる適時三塁打を打つ。決勝の韓国戦では、10回表に左前安打で一、三塁と繋ぎ、イチローの決勝点となる2点適時打を呼び込み、日本代表チームで最後のホームを踏んだ(決勝点となったホームを踏んだのは内川聖一)。全9試合で、打率.286、出塁率.417、1盗塁、7得点。得点7はイチローとともにチーム最多だった。 レギュラーシーズンではB.J.アップトンを1番打者とするチーム方針から開幕直後は9番で起用される5月24日のフロリダ・マーリンズ戦まで打率.310、本塁打なし、出塁率.377と例年以上の好調を見せていたが、その試合の8回に二塁の守備についた際、一塁走者クリス・コグランの激しいスライディングを受けて左膝を負傷し途中退場。精密検査の結果、左膝前十字靱帯断裂と診断された。故障当初はシーズン中の復帰は絶望視されていたが、6月22日に手術を受けた際に部分断裂であることが判明。8月29日のデトロイト・タイガース戦で復帰し、翌日の試合では1号本塁打を打ち、「今季はホームラン0かなと思っていたんですけど、打ててよかったです」とコメントした。9月にはチームが11連敗を喫しポストシーズン出場を逃した。
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デビルレイズ・レイズ時代
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「B.J.アップトン」の記事における「デビルレイズ・レイズ時代」の解説
2003年はマイナーリーグ(A級とAA級合計)で130試合に出場し、打率.297、8本塁打、62打点、出塁率.388、OPS.819、40盗塁を記録、サウスアトランティック・リーグのオールスターに出場した他、レイズ内のマイナーリーグ・プレーヤー・オブ・ザ・イヤーを受賞。遊撃手として56個もの失策を犯したが、同リーグ監督選のベスト・ベースランナーとベスト・インフィールド・アーム、No.1有望株の3部門に選定。 2004年は、ベースボール・アメリカ誌の「野球界の有望な選手」として2位にランクされ、AA級とAAA級合計で98試合に出場して打率.315・14本塁打・51打点・出塁率.406・OPS.911・20盗塁と着実に成長を遂げる。守備では35失策を記録したものの、同誌が選ぶマイナーリーグ・オールスター代表チームに選出。8月1日にメジャー初昇格し、翌2日のボストン・レッドソックス戦において9番・指名打者でスタメン起用され、ティム・ウェイクフィールドからキャリア初安打となる右前安打を放つなど、3打数1安打1四球2出塁1得点の好結果でデビュー戦を飾った。19歳でのメジャー・デビューは球団史上最年少であり、ルー・ピネラ監督をして「A-RODの再来」と言わしめた。 2005年はメジャー未出場に終わったものの、AAA級ダーラム・ブルズで139試合に出場、打率.303、出塁率.392、OPS.882、44盗塁の好成績を挙げ、7月10日にはオールスター・フューチャーズゲームに出場。53個もの失策を犯したが、ベースボール・アメリカ誌選のマイナーリーグ・オールスター2ndチームにも選出され、インターナショナルリーグのモスト・エキサイティング・プレーヤーに選定される。 2006年はAAA級ダーラムで106試合に出場して出塁率.374、46盗塁(両リーグ最多)。33失策も記録したが、7月12日にはインターナショナルリーグのオールスターに出場。マイナーでは遊撃手であったが、8月1日にメジャー再昇格を果たしてからは三塁手にコンバート。20日と22日に左肩を故障したこともあり、50試合に留まった。 2007年はシーズン開幕戦から9番打者として先発出場を果たし、ポジションは岩村明憲の加入もあって二塁手を守る。5月27日と6月5日にはキャリアハイとなる1試合4安打を放ったが、6月8日の試合で走塁中に左足を痛めて約1か月間戦線離脱。7月13日に復帰してからは、「B.J.は攻撃に専念させたい」との球団フロントの意向によって中堅手にコンバート。復帰後間もない15-21日にかけて6試合中4試合で3安打を放ち、特に20日には自身初の1試合2本塁打を叩いた。この活躍により、プレーヤー・オブ・ザ・ウィークを受賞(16-22日の週)。8月22日は松坂大輔から決勝点となる2点本塁打をライトスタンドに叩き込み、24日からは4番に定着。故障に見舞われたものの、初めて規定打席をクリアし、23歳以下ではMLB史上5人目となる打率3割、20本塁打、20盗塁を達成。ボールの見極めが上達し、更に長打率はリーグ9位、外野補殺数は同6位と飛躍のシーズンとなった。 2008年は開幕当初は4番に座っていたが、4月16日からは3番、7月20日からは2番を務めた。8月以降は3度も怠慢プレーを理由にベンチに下げられる失態を犯し、9月には左足負傷により10試合欠場したが、シーズン通算では自己最多の145試合に出場した上、リーグ2位の盗塁数(44)と補殺数(16)とレンジ・ファクター(2.84)、同4位の四球数(97)、同7位の出塁率(.383)をマーク。身体能力と出塁能力、両面において高いパフォーマンスを発揮した。ポストシーズンでは16試合に出場して66打数19安打、打率.288・7本塁打・16打点・出塁率.333・長打率.652・6盗塁。ポストシーズンにおける単年7本塁打はアメリカンリーグのタイ記録であり、球団史上初となるリーグ制覇の原動力になった。ワールドシリーズでは1勝4敗でフィラデルフィア・フィリーズに敗北したが、レイズの24盗塁はそれまでの21盗塁を塗り替えるポストシーズン新記録となった。シーズン終了後の11月11日に左肩の手術を受けている。 2009年は、開幕から1週間遅れの4月13日(対ニューヨーク・ヤンキース戦)から戦列に復帰し、打順は1番になった。そして3打数1安打3四球4出塁2盗塁2得点とインパクトを与え、「彼は一段と進歩・成長している、新しい役割に見事に順応している」とジョー・マドン監督を感心させた。マドンは更に「彼はリッキー・ヘンダーソンやルー・ブロックに比肩する存在になれるかもしれない」と述べ、アップトンのリードオフとしての攻撃能力に一目置いている。10月2日のヤンキース戦で球団史上初のサイクル安打を達成した。第1打席で走者一掃の三塁打を放つと、3回の第2打席で左中間へ二塁打。4回の第3打席では右中間へ2点本塁打。さらに5回の第4打席で右前安打を放ち、球団初のサイクル安打を達成した。8回にも左前安打を放ち、この試合5打数5安打6打点を記録した。 2012年のオフにFAとなった。
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