A寝台
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A寝台(エーしんだい)とは、日本国有鉄道(国鉄)およびJRにおける寝台車の区分において、B寝台の上位に位置する寝台設備である。なお、国鉄・JR以外では長距離フェリーの一部にも「A寝台」という名の設備があるが、本項では専ら国鉄・JRのA寝台について述べる。
- ^ 国有化から約20年後の大正14(1925)年における[6]一等寝台の連結列車は、東京-下関と上野-青森が2往復、東海道本線内および門司-長崎/門司-鹿児島/函館-稚内が各1往復。そして二等寝台を有する列車は計20数往復に達しており、上記の一等連結路線の他、当時全通していた幹線亜幹線のほぼ全てで利用することができた。
- ^ 昭和9(1934)年において[7]二等寝台を有する列車は計40(うち半車のみは11)往復を数えるが、6割程度は普通列車である。なお3年前に出現した三等寝台は計23往復に達しているが、こちらは3分の2が優等列車への連結であった。
- ^ ツーリスト式とは、窓を背にしたソファー形式の座席(一種のロングシート)が、夜間はそのまま下段寝台として使われる構造である。なお上段は折り畳み式の寝台を使用した。
- ^ この結果[7]東京以北および九州島内の列車は座席も寝台も全て二・三等となった。一等寝台車の連結は東京以西の3往復で、名士列車と呼ばれた東海道線1.2等急行、および東京-下関の特急「「富士」」と1.2.3等急行。なお昭和17(1942)年の関門トンネル開通でこの2往復が九州に乗り入れたことにより[8]、長崎および鹿児島への一等寝台が復活したが、戦争激化に伴い昭和19年に終了。
- ^ 戦時下の昭和17(1942)年には[8]、急行列車のうち上野-青森(201,202)と函館-稚内(1,2)の2往復にこの特別室が存在し、一等との中間程度となる2円40銭増の寝台料金を要した。
- ^ 上述の通り、東北・北海道地方と行き来する高官への配慮によるが、二等であるため折畳み洗面台は省かれている。なお区分室であるから日中の座席利用はできなかったと思われるが、紀行作家の宮脇俊三は北海道旅行の際、陸軍将校2人が占有中の特別室に父親が入り込み、ひと悶着のすえ計4人で使用した[10]。
- ^ 後年に定員は3名とされた。また、特別室には専用の便洗面所が併設されていた。
- ^ 上記マイネ40およびマイネ41(区分室なし)の冷房つきプルマン式寝台は、開放室であるが一等とされた。
- ^ 昭和29(1954)年においては[14]、一等寝台を有するのは東海道線が「銀河」「彗星」「月光」、「きりしま」「筑紫」は共に東京-博多のみ。また以前の特殊列車では、東京-(呉線)-博多、大阪-博多、東京-(青函連絡船による航送)-札幌。そして二等寝台は東海道・山陽本線の他、鹿児島・長崎本線、東北・常磐・奥羽本線、および日本海縦貫線など北海道を含む幹線亜幹線で利用可能となっていた。ただし寝台のある列車は20数往復で、戦前黄金期と言われる頃[7]の半分程度。
- ^ a b 過去の接収時には冷房が取り付けられ、この当時も冷房搭載可能だったが、実際には機器を取り付けていなかった。
- ^ 一等寝台廃止前年の1954年における[14]特ロネの連結は、長崎発着の「雲仙」、青森発着の「北斗」「十和田(東京-仙台のみ)」の計3往復。なお二等へ格下げされなかった区分室は一等特別室(特イネ)とされ、九州往還の「筑紫」「きりしま」「西海」「早鞆(一部は東京-大阪のみ)」、および「十和田」「洞爺」(津軽海峡航送)の計6往復に存在していたが、これらも翌年には二等Aとなった。
- ^ 東海道新幹線開業の1964年10月時点で[17]、一等(旧二等)A寝台は20系の九州特急とマロネ40の東海道線急行が3往復ずつ、一等Bは約9割が10系と20系でマロネ40・マロネ41は6往復のみ、そして一等Cの連結は主に準急の数往復までに減少した。なお二等寝台車は寝台を有する列車の全てに連結されている。
- ^ 等級制の時代には、寝台車の利用に際してもその等級に対応した運賃や急行料金を支払う必要があり、一等は二等の2倍程度であった。例えば1968年の東京-博多間(普通)急行の場合、一等寝台Bでは計8千円ほどを要した。ちなみに二等寝台(客車)は4千円程度で、一等座席車(後のグリーン車)の約6千円より安い。
- ^ ただしA寝台料金は旧一等寝台の倍額程度に設定され、また一本化の運賃は旧二等の1~2割増となったので、モノクラス一年目の1969年に東京-大阪の急行A寝台下段には計6,730円を要し、一等B時代の計6,040円より値上げになっている。
- ^ 77系客車を用いた「ななつ星in九州」は団体専用列車として登場時より用いられている。そのため、時刻表上で表記をされることがない。しかし、夜行列車・寝台列車を扱った雑誌・書籍等では便宜上[要出典]などと表記される場合もある。
- ^ 「夢空間」は臨時列車運用時でも「デラックススリーパー」などと説明が行われ、必ずしも「SA2」の記号が用いられたことがなかった。
- ^ 「寝台車 山陽鉄道に施設」1900年3月14日報知新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ RP 399 p.57(写真あり)。
- ^ 長船、p.174(寝台使用法の解説図あり)。
- ^ 「三等寝台車製造の計画」1902年2月6日大阪朝日新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 「官線に寝台車」1900年6月9日読売新聞『新聞集成明治編年史. 第十一卷』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ 大正14(1925)年4月号『鉄道省編纂 汽車時刻表』(現JTB時刻表) 復刻版 JTBパブリッシング 2022
- ^ a b c 昭和9(1934)年12月号『鉄道省編纂 汽車時間表』(現JTB時刻表) 「特殊設備ノアル旅客列車一覧表」
- ^ a b 昭和17(1942)年11月号『鉄道省編纂 時刻表』(現JTB時刻表)
- ^ 岩成政和 2008。
- ^ 『時刻表昭和史 完全版』 第8章 急行1列車稚内桟橋行―昭和17年 中公文庫 2023
- ^ 7月15日開始10月1日停止『鉄道省年報. 昭和10年度』(国立国会図書館デジタルコレクション)
- ^ RP 399 p.58。
- ^ 増補改訂 鉄道略年表 日本国有鉄道編
- ^ a b 1954年10月号『国鉄編集 時刻表』(現JTB時刻表)
- ^ a b 齋藤雅男「『イネ』を始末する」参照。
- ^ RP 667 p.16以下、p.42以下。
- ^ 1964年10月号『国鉄監修 交通公社の時刻表』(現JTB時刻表) 復刻版 JTBパブリッシング 2019
シングルデラックス
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「JR西日本285系電車」の記事における「シングルデラックス」の解説
4号車と11号車の2階部分にそれぞれ6室(うち禁煙室3室)ある1名用A寝台個室である。 2階建でかつ通路を除く車体幅全てを使用するという空間的余裕を生かし、大型デスクや洗面台を備えており、レール方向に配置されたシングルベッドの幅(850mm)も最大級である。運行開始時には小型液晶テレビが設置され、衛星放送(NHK BS1・BS2およびWOWOW)が受信可能であったが、BSデジタル放送への移行を待たず2010年3月をもって撤去され、現存しない。 シャワーは同じ車両内にシングルデラックス利用客専用のシャワールームがあり、無料で使用できる。車内改札の際に車掌から渡されるシャワーカードを挿入して使用する。なお、3号車・10号車にある全乗客共通のシャワールームも利用可能。また、専用のアメニティグッズも用意されている。 この設備は前身列車である「瀬戸」・「出雲2・3号」でも設定されていた。 シングルデラックス(液晶テレビ装備時代) 大型デスクと洗面台 操作パネルと窓
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シングルデラックス
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「あけぼの (列車)」の記事における「シングルデラックス」の解説
A寝台「シングルデラックス」(7号車)は、全11室の1人用個室であった。室内にはビデオモニターや、BGM装置が設置されている。ビデオモニターではビデオが放映されているが、機器の老朽化に伴い2011年9月30日出発の列車をもってサービスを終了した。基本的には映画が放映されており、2つのチャンネルから選べるようになっていた。
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