ゴーベル選挙法; 1899年州知事選挙
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「ウィリアム・O・ブラッドリー」の記事における「ゴーベル選挙法; 1899年州知事選挙」の解説
1898年2月1日、州議会上院議長代行のウィリアム・ゴーベルが後にゴーベル選挙法と呼ばれる方法を提案した。この法案は選挙管理委員会を創設して、州議会に委員を指名させ、州内の全ての郡で選挙委員を選ばせることだった。管理委員会は選挙の結果を検査し、その結果を決めることができるものとされた。異論が出た選挙の結果を最終的に裁定する権限は州議会に残され、ケンタッキー州憲法第153条に従うこととされた。州議会は民主党が優勢だったので、ゴーベルは1899年の州知事選挙で民主党の候補になる可能性が強いと考えられ、この法案はあからさまに党利に走り、手前味噌であると、民主党員からも攻撃された。それでもゴーベルは党内で十分な支持を確保し、ブラッドリーの拒否権を乗り越えて法制化に成功した。 この法を撤廃するために特別会期を招集する提案が行われ、ブラッドリーもその案に賛成したが、議会の票決では招集を正当化するには曖昧な態度を採った者が多いことがわかった。共和党はこの法に対して試訴を行ってみたが、ケンタッキー州控訴裁判所はそれを合憲と判断した。ゴーベルは党の指導者として選挙管理委員会の委員を基本的に自分の都合で選んだ。3人の信頼できる民主党員、すなわち、元ケンタッキー州控訴裁判所首席判事W・S・プライア、デイビース郡選出の元アメリカ合衆国下院議員W・T・エリス、元州鉄道委員会委員長C・B・ポインツだった。 ブラッドリーの任期が終わり近くなると、彼を継ぐ可能性がある共和党候補者は当初少なかった。1896年アメリカ合衆国大統領選挙で、民主党候補のウィリアム・ジェニングス・ブライアンがケンタッキー州を18,000票差で制したことで、1899年州知事選挙も民主党が制するという見方があった。ブラッドリーの政権に対する民主党の攻撃が避けられない情勢であり、その防衛に興味がない者もいた。ゴーベル選挙法の仕組みによって、敗北する見込みに怯える者もいた。現職の検事総長ウィリアム・S・テイラーが最初に出馬表明し、間もなくデボー上院議員からの支持も得た。その後出馬表明した候補者はホプキンス郡の判事クリフトン・J・プラット、現職州監査官サム・H・ストーンがいた。プラットはブラッドリーの推薦だったが、テイラーは熟練した政治力があり、郡部代議員の中に強力な政治マシーンを作ることができた。テイラーが候補指名を得る可能性が強いと見られていた。 共和党の指名大会は7月12日にレキシントンで開催された。ブラッドリーは、党が候補者について真剣に検討しないことに怒り、出席しなかった。党内の黒人指導者達はブラッドリーの後に続き、独自の指名大会を開催すると脅した。テイラーは党内の「ユリの白人」派を代表すると考えられていた。テイラーは、黒人指導者の1人を党大会の恒久的な秘書官とし、もし知事に当選した場合には黒人指導者を入閣させると約束することで、党を1つに纏めようとした。ブラッドリーの甥であるエドウィン・P・モローを州務長官に指名すると約束することで、ブラッドリーを党大会に戻って来させようともした。ブラッドリーはこの申し出を拒絶した。テイラーの優れた組織を前にしては、他の候補者は全て党の一体感を示すために撤退し、テイラーが全会一致で候補指名された。 ブラッドリーは当初テイラーに対して冷淡だったが、その後に民主党候補に指名されたゴーベルが、州内で広く人気があったウィリアム・ジェニングス・ブライアンと共に州内を巡回したので、共和党指導者オーガスタス・E・ウィルソンと共にブラッドリーが州内を回ることに合意した。ブラッドリーは民主党の攻撃から自分の政権のことを守ることのみを望んだが、将来的にブラッドリーがアメリカ合衆国上院議員の候補になったときにテイラーの支持を得るようになるとヘンリー・ワッターソンが示唆した。ブラッドリーはルイビルで州巡回の旅を始め、州内の有能な者が全て居なくなっているので、民主党はその候補者のために雄弁家を輸入しなければならないと攻撃した。また黒人には共和党を去らないように勧めた。民主党が客車分離法を支持しているのと、その内閣に黒人を指名したことを対照させた。その演説を通じて、自分の政権を弁護したが、テイラーについては一度も触れなかった。最後は「投票所に行ってテイラーに投票しよう!」という一文で締め括った。ブラッドリーが会場を出ると、ウィルソンが「ブラッドリー、貴方の人生で最も如才ないやり方だ」と囁いた。州内の巡回を続ける中で、ブラッドリートウィルソンはテイラーが集めたよりも多くの聴衆を呼び寄せたことが多かった。 選挙運動が終わり近くなると、共和党も民主党も互いの陣営が行う不正選挙や暴力の可能性を警告するようになった。ルイビル市長のチャールズ・P・ウィーバーはゴーベルの民主党側であり、選挙直前に市警察500人を追加して、市内で有権者に対する脅しが起こらないよう取り締まらせた。ブラッドリーは州兵を動員して、州内での如何なる妨害行為をも鎮める準備をするよう命じた。選挙日の「クーリエ・ジャーナル」の見出しは「銃剣の規制」となっていた。 選挙日の11月7日、暴力沙汰が起こる可能性が言われていたが、州の大半では静かなままだった。州全体で1ダースに満たない人が逮捕された。開票は緩りであり、夜になっても接戦のために結果が見えなかった。公式集計が出たとき、193,714 票対 191,331 票という接戦でテイラーが勝っていた。民主党反体制派が指名した元知事のジョン・Y・ブラウンが12,040票、ポピュリスト党候補者ジョン・G・ブレアが2,936票を得ていた。選挙管理委員会はゴーベルが支配していると考えられたが、その判断は2対1で開票結果を裏付けるという驚きのものになった。委員会の多数意見は、司法権限を持っていないので証拠を調べたり証言を聞いたりできず、如何なる投票も無効化する根拠が無いというものだった Taylor was inaugurated on December 12, 1899.。 ブラッドリーは知事を辞めた後で、ルイビルに移動して法律実務を再開した。ブラッドリーが辞めた直後にゴーベルとその副知事候補J・C・W・ベッカムが州憲法に従って州議会で1899年州知事選挙の結果に対する異議申し立てを行った。州のその他の役職候補者全ても同様な申し立てを行った。ブラッドリーとその仲間であるオーガスタス・E・ウィルソンは共和党を代表する法律チームの一部を結成し、州議会と裁判所でゴーベル選挙法の合法性について異議申し立てを起きない、後には州議会の審査委員会の行動についても異議を申し立てた。 州内の共和党員は州議会の審査委員会がゴーベルを知事にするだけの票を無効にすることを推薦すると予測していた。州東部から武装した者達が州都に入り、審査委員会の結論が出るのを待った。1月30日朝、ゴーベルと2人の友人が州会議事堂に向かって歩いていると、銃声が響き、ゴーベルが負傷して倒れた。ゴーベルは近くのホテルに運ばれて傷の手当てを受けた。審査委員会は予測された通りゴーベルを知事にするだけの票を無効にすることを推薦し、州議会はその推薦を認証する票決を行った。ゴーベルが宣誓して州知事に就任したが、2月3日に死んだ。続いてベッカムが宣誓して知事に就任し、テイラーとその副知事候補ジョン・マーシャルに対する異議申し立てを引き継いだ。 連邦裁判所では、ブラッドリーが共和党員の役人のために論じた。それはゴーベル選挙法で市民からその選挙権を取り上げたものだった。選挙権はアメリカ合衆国憲法修正第14条で保証された固有の「自由」であり、適性手続き無しに如何なる市民からも取り上げられないというのがブラッドリーの主張だった。連邦裁判所判事ウィリアム・ハワード・タフトは、共和党員が州裁判所で救済処置を求めなければならないと裁定した。法廷闘争が長引いた後、検事総長のクリフトン・J・プラットを除いて、州の役人は全て解任された。 テイラーとマーシャルの事件はケンタッキー州控訴裁判所に控訴され、さらにアメリカ合衆国最高裁判所まで行った。「テイラー対ベッカム事件」では、ブラッドリーが連邦裁判所に司法権があるとした類似事件「セイヤー対ボイド事件」を引き合いに出して、民主党の司法権を持つべきでないとした主張に反論した。さらに選ばれた役人は資産であるとした権威者の発言を引用して、修正第14条で保証されたテイラーの権利が侵害されたので、裁判所に司法権が与えられると主張した。ブラッドリーはまた、州議会審査委員会委員の選挙が委員会そのものの判断を左右するとも主張した。この事実は、委員が自分達に有利な判断をできるという根拠で、委員会と議会の判断を無効化すべきものだと論じた。最後にテイラーとマーシャルの弁護団によって文書で行われた証言を照査する十分な時間が与えられなかったことを含め、審査委員会の手続きの不法行為を取り上げた。しかし裁判所は、連邦に関わる問題が入っていないという理由で、事件に介入することを拒んだ。その意見に唯一反対だった判事が、ケンタッキー州出身のジョン・マーシャル・ハーランだった。
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