クハ3850形・サハ3370形
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「東急3000系電車 (初代)」の記事における「クハ3850形・サハ3370形」の解説
1953年より川崎車輛で3850 - 3854の5両、東急横浜製作所で3855 - 3866の12両、計17両が製造された。運輸省規格型の束縛もなくなった時期であり、戦後初の東急独自による新車といえる。デハ3800形とは形状・経緯など似て非なる部分も多く、事実上制御車のみのグループである。 制御車のみが大量製造された経緯として、元来電動車比率が高い状況のもとで、効果的に長編成化を図ったことがあげられる。戦前からの車両はサハ1形→サハ3350形や戦災復旧車などを別にすれば単行使用が前提の両運転台電動車ばかりであり、戦後の増備車を加えても、本形式の登場直前の段階で電動車147両に対し制御車・付随車は42両に過ぎなかった。 こうした中、鉄道全線の架線電圧1,500V昇圧により主電動機出力が向上(例:デハ3450形等のHS267系で600V時に75kWが、昇圧後は94kWになる)すると、電動車のみの編成では当時としては出力過剰気味であり、昇圧を控えた段階で、まとまった車両増備が片運転台の制御車のみとなったのは、充分な必然性があったと考えられよう。 車体形状や寸法などはデハ3700形を基本としつつも、製造当初より前面が貫通式であるほか、乗務員室の奥行きが拡張され、客室窓割りが後ろに若干寄っており、連結面側は平妻になっている。 戦後の混乱から一段落した時代でもあり、3700系譲りの天地の小さい窓を持ちつつも、鋼体、室内木工など各部造作仕上は丁寧なものになった。前照灯は湘南電車等を思わせる埋め込み式となったほか、特筆すべき点として当時熾烈な開発競争がなされた新型台車の採用が挙げられる。川崎製は軸梁式のOK-6が、東急製はペデスタル式のYS-T1が採用された。いずれもイコライザーや板バネを廃したもので、飛躍的な乗り心地の向上をもたらした。さらに従来深緑色だった車体色が窓周りが山吹色、幕板部と胴部が紺色のツートンカラーとされ、後に在来車にも波及した。 また川車製は3854号以外に幌枠がなく、貫通扉上部にウィンドゥヘッダーが巻かれている。その一方で東急製は全車幌枠を装備していた。他にも曲面や窓周りの仕上げにも両者に差異がある。また車両番号は他系列とは違い3850 - 3866と1ではなく0から始まっているのも特徴だが、理由は不明である。デハ3450形も同じく0から付番されているが、これは50両存在した全車の番号を収めるためである。 登場後は3400形以降の電動車各形式と組み、新玉川線を除く鉄道全線で使用された。クハ3866は白黄赤の塗装にピンク色の内装となって開業時のこどもの国線に転属した。同車は1967年4月28日開通式のおり、テープカットをつとめた常陸宮正仁親王や政府関係者、当時の東急社長・五島昇ら要人の乗用となった経歴を持つ。その後連結相手のデハ3405による単行運転を行う際、当時所属していた鷺沼検車区で入換作業を必要とすることからクハ3662と交替して本線に復帰した。このとき外板はグリーンに塗装されたが独特の内装はそのままで、本線系統の車両に混じって異彩を放っていたという。 1973年から更新修繕が開始されたが、従来の窓寸法の拡大とアルミサッシ化、室内デコラ張り化などに加えて張り上げ屋根化と前照灯・尾灯のユニット化も行われ、追ってデハ3500・3650・3800も同仕様となった。またこの際、デハ3500形等の中間に組み込まれていたものについては5両が運転台を撤去して付随車化され、サハ3370形となった。これらは旧前面側が丸妻のままであり、窓配置も中心から若干偏った中間車となった。デハ3450・3500形の中間に連結され3連で使用されたが、MTM(M:電動車、T:付随車)3連は補助電源の集中化が行われたことから、サハ3360形全車とサハ3251とともに、本形式に関しても5.5kVAの東芝CLG319形電動発電機が搭載された。これは大阪万博モノレールの発生品とされるもので、日本万国博覧会開催当時に同モノレールの運行管理を東急が担当したことと関連があるとされる。 クハ3859・3857・3863・3865・3862→サハ3371 - 3375 末期は両形式とも目蒲・池上線で使用され、1981年より廃車開始。1989年3月の3000系列一斉廃止まで運用された。その直前には最終定期検査のクハ3861と3866、サハ3375(それぞれ3452F、3484F、3472Fに連結)が黄と青のリバイバル塗装となっていた。とくにクハ3861と3866は前面2灯、サハ3375を含めると張り上げ屋根、通常の2段窓に旧塗装という最初で最後の姿となった。 大半がそのまま廃車解体された中、クハ3855・3861は十和田観光電鉄に譲渡され、それぞれ3810・3802となり2002年まで使用されたほか、クハ3856、サハ3375は運用離脱後もしばらく長津田検車区に留置されていたが、1994年頃までに解体されている。またサハ3372は1985年の第1回東京国際映画祭の折りにデハ3466と同様に渋谷で展示され、終了後軽井沢に移送ののち解体されている。
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