キハ41000形の設計を流用して製造された気動車
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「国鉄キハ04形気動車」の記事における「キハ41000形の設計を流用して製造された気動車」の解説
鉄道省の標準型気動車として量産されたキハ41000形には、鉄道省自身の手になるキハ40000形の他、下記の各社に、その設計を流用して製造された姉妹車と呼ぶべき車両が存在した。 鉄道省樺太鉄道局 樺太庁鉄道キハ2000形として窓配置を (1) BD (1) 11 (1) D1(D:客用扉、B:荷物室扉、(1):戸袋窓)とした旅客・荷物合造車を1933年(昭和8年)・1934年(昭和9年)に汽車製造東京支店(2001・2002)と日本車輌製造東京支店 (2003) で製造した。キハ41000形との変更点は、車体は側面窓幅が700 mmと広いこと、室内はロングシートで冬季には一部座席を外して石炭ストーブを取付けるようになっており、屋根上にはその煙突が設置されてベンチレーターが6箇所となっていたこと、機関がウォーケシャ6RBとなるなど、アメリカ製の機関・駆動系を搭載し、動台車が軸距850 + 1,250 mmの偏心式であることなどであった。また、汽車会社製のものは台車が下揺枕と端梁付き、日本車輌製造製のものは動軸に砂撒管付きで正面運転台前の窓に旋回窓が設置してあるなどの差異もあった。樺太の内地編入にともない、鉄道省キハニ2000形となる。 津軽鉄道 窓配置を1D (1) 11 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)とし、客用扉幅を900 mm, 側面窓幅を700 mmにそれぞれ拡大、車体長を500 mm短縮するなどしたキハ2400形2402・2403を1950年(昭和25年)に新潟鐵工所で製造した。室内はオールロングシート、連結器は座付の自動連結器、機関は日野DA55で当初は代燃ガス発生装置付で、変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていた。 羽後鉄道 旧日本鉄道の雑形客車の台枠と、手持ちのTR29台車を用いて、1950年(昭和25年)に宇都宮車両でキハ1形1として本形式のほぼ同型車を製造した。室内はロングシート、機関は日野DA54改で変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていたが、1957年(昭和32年)の車庫火災で焼失、廃車解体された。 小名浜臨港鉄道 新宮鉄道買収気動車の車体更新名目で、1953年(昭和28年)に日本車輌製造東京支店にてキハ41600形相当のキハ103を新製。 関東鉄道常総線 元北九州鉄道ジハ20の台車流用で日本車輌製造東京支店にてキハ41600形相当の車体を新製し、キハ41020形41021として使用した。室内はロングシート、台車は汽車会社製で動台車が750 + 1,150 mmの偏心式の端梁付き菱枠台車、機関は日野DA54で変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていた。 五日市鉄道 1936年(昭和11年)にキハ41000形をベースに前面のみキハ42000形と同形のものに変更したキハ500形501・502を新潟鐵工所で製造した。詳細は五日市鉄道キハ500形気動車の項を参照。 同和鉱業片上鉄道 1953年(昭和28年)にキハ04と同様の基本設計によるキハ3004・3005を宇都宮車両で新造。1967年(昭和42年)にキハ310形311・312と改番した。長柱を用いた張り上げ屋根、乗務員扉の設置、正面の2枚窓など、国鉄キハ04形に準じていながら随所にオリジナルの要素が加えられていた。機関は戦後製ながら当初GMF13であったが、変速機、逆転機のギア比はキハ41000形とは異なっていた。キハ311は1985年(昭和60年)に廃車後、個人に引き取られ、静態保存されている。また、キハ312は1991年(平成3年)7月1日の鉄道廃止まで旅客営業に使用され、鉄道廃止後は柵原ふれあい鉱山公園で動態保存及び展示運転されている。 中国鉄道 燃料統制が始まった1937年(昭和12年)に、商工省の規制枠を回避すべく、一旦3両分の申請認可後に、1両の追加申請を「増車」扱いとして改めて受理するという、会社と鉄道省が示し合わせた一種の回避策を用いることで、日本車輌製造、加藤車両、川崎車輌の3社でキハニ190形190, キハニ200形200・201, キハニ210形210として同時に4両を新製した。これらは軸距が850 mm + 1,250 mmの偏心台車を動台車として装着したキハニ210形を除き、車体・台車はほぼ完全にキハ41000形相当であったが、機関・駆動系はエンジンがウォーケシャ6RB, 変速機はコッターFA, クラッチはロング34Aと、中国鉄道の気動車の標準仕様に従って全てアメリカ製機器が採用されていた。これらは国有化後、キハニ190を除き私鉄各社へ払い下げられ、それぞれ岡山臨港鉄道キハ3001(キハニ200)、倉敷市営鉄道キハ310(キハニ201)、長門鉄道キハ10(キハニ210)→防石鉄道キハ103→島原鉄道キサハ211→ユニ211となった。なお、キハニ190はその後も長く国鉄に残留し、1949年(昭和24年)に雑形客車としての形式を与えられて保健車のコヤ6680となり、更に1953年(昭和28年)の形式改定でコヤ2600と改番され、1968年(昭和43年)まで釧路機関区に配置されて使用された。 山鹿温泉鉄道 国鉄線乗り入れ用として1951年(昭和26年)にキハ1形1・2を新潟鐵工所で新製。同じメーカーの手になる津軽鉄道キハ2402・2403と同様、窓配置が1D (1) 11 (1) D1(D:客用扉、(1):戸袋窓)で側面窓幅700 mm, 客用扉幅900 mmで、低いホームに対応するため客用扉と戸袋窓部の下部が大きく下がり、2段ステップを備えているのが特徴であった。室内はクロスシート3ボックスとロングシートの組み合わせ、機関は日野DA55Aで変速機、逆転機のギア比もキハ41000形とは異なっていた。予備車がない運用のため、1957年7月の水害による国鉄線直通途絶までは、予備エンジンを用意して夜間に換装することでフル稼働した。路線廃止後にメーカーの新潟鐵工所に引き取られており、同社大山工場で改装工事施工中の1965年撮影の写真が残っている。同社が同時期に類似車を納入していた津軽鉄道への転売を目的にしたものとされるが、経緯不明ながら頓挫、そのまま解体されたと見られている。
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