ウダイの権力復帰
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/05 03:54 UTC 版)
「ウダイ・サッダーム・フセイン」の記事における「ウダイの権力復帰」の解説
事件の二週間後、ウダイはイラクのジュネーヴ国連代表部一等書記官に任命され、スイスに任官した。叔父であるバルザーンがお目付け役となり、ウダイの野性を丸くしようと努力したが、無駄だった。ウダイは外交官としてスイスに滞在するための滞在許可を申請したが、その申請が審議されている最中にジュネーヴのレストランで店側とトラブルを起こし、ナイフを振りかざして、警官と口論となったのである。スイス滞在中も外交官らしい仕事を一切せず、毎夜のようにバーやナイトクラブなど、風俗街に入り浸りになっていた。結局、パリ、イスタンブールを転々とした後、イラクに帰国した。 湾岸戦争はウダイにとって予想外の出来事だったらしく、彼は戦争になるとは思っていなかったという。91年1月、イラク軍占領下のクウェートを訪問中、イラクがイスラエルを弾道ミサイルで攻撃したというニュースが飛び込んでくると、ウダイはイスラエルの報復攻撃を恐れて狼狽し、急いでバグダードに引き返した。その途中、ウダイの乗った車列が多国籍軍の爆撃を受けたが、本人は難を逃れた。 湾岸戦争終結後に南部シーア派住民による反政府暴動が起きた際には、意外にも「シーア派の人間を殺す気にはなれない」と言い、南部に行くことを拒否したという。 イラクが国連による経済制裁を受ける中、ウダイは義兄弟のフセイン・カーミル・ハサンと共に「アル=アミール社」を設立し、かつての敵国イランと食料や石油密輸、兵器売買などの密貿易で私腹を肥やした。例えば、国連からの人道支援物資を闇市に横流ししたり、日本から送られた児童用ミルクの荷札を張り替えて売り飛ばした。このことは、その後、米軍がバグダードを制圧した際に、ウダイが経営する企業の倉庫から大量の人道支援用の粉ミルクが発見されたことから明らかになっている。また、キプロスを経由して密輸タバコも売っていた。 このことを聞きつけたサッダームにより、同社は解散させられたが、ウダイはすでにイランだけでは無く、ヨルダン、シリア、トルコなどにも密輸ルートを独自に確保していた。また、イラクで唯一のペプシコーラ製造工場や、ファーストフード店も経営していた。また、ロシアン・マフィアや南米の麻薬組織とも関係が深かったと言われる。このころのウダイはイラクでもっとも裕福な男となっており、個人資産は数億ドルあるとされた。 このころ、カーミル・ハンナ殺害直後に解任された全職への復職が許された。その後、イラク・ジャーナリスト協会会長、イラク作家連盟会長、イラク俳優連盟会長など文化・芸能面にも権力を進出させた。また、イラクオリンピック委員長にも復帰した。 イラク・オリンピック委員長時代、成績不振のスポーツ選手に対して日常的に拷問が行われ、52人ものスポーツ選手が彼の拷問によって命を落としたと言われ、のちにアメリカ軍によってイラク制圧後にウダイが利用していたとされる拷問用のマスクなど多数の拷問器具が発見されている。また、ウダイと対立したサッカー・イラク代表監督はウダイから自宅にロケット砲を撃ち込まれている。 1993年に行われたFIFAワールドカップ・アメリカ大会アジア地区最終予選の日本対イラク戦(ドーハの悲劇)でも、もしイラク代表が日本代表に敗北していた場合、メンバーに対し全員鞭打ちの刑に処せられることになっていた、と当時のイラク代表のメンバーが語っていた。前半を一点ビハインドで折り返した際、ハーフタイム中にロッカールームにウダイが現れ「お前たち、分かっているだろうな」と敗戦後の拷問をほのめかしたという。後半は打って変わって激しいフィジカルコンタクトを前面に押し出したサッカーを終始続け、終了間際に同点ゴールを決めたことで鞭打ちの刑が回避された。この時のイラクの選手たちの様子をラモス瑠偉は「前後半でまるで違うチームになった」と述懐している。 1997年、イラクは、第1シードとして、仏W杯アジア1次予選グループ9でカザフスタンとパキスタンと同じ組になったが、カザフスタンがイラクの成績を上回り、イラクの予選敗退が決まった。1997年6月29日、1次予選最終戦のアウェイでのカザフスタン戦でイラクが敗退し、イラク代表選手たちが帰国すると、イラクサッカー協会会長を兼務していたウダイが代表選手たちを軍事施設に連行し、鞭打ちした。また、コンクリートむき出しの狭い拷問部屋(立って歩けない程の低い天井で、狭く、更に部屋中に無数のコンクリートの柱がひしめき合うように立っていた)に選手を閉じ込めたりした。この事件をイギリスの新聞がセンセーショナルに報道したことで、後に国際サッカー連盟(FIFA)が調査したが、「暴行は無かった」と報告した。しかし、2003年のイラク戦争で、フセイン政権が倒れると、報道されたウダイの拷問の全てが事実であったことが判明した。 また、自ら設立したメディア機関で、ターハー・ヤースィーン・ラマダーン、ターリク・ミハイル・アズィーズなどのバアス党内の古参幹部や時のアフマド・フセイン・フダイル内閣の経済政策、外交政策を辛辣に批判し、政府の人事や政策にも大きく影響した。 1994年、ウダイはサッダームの異父弟で叔父にあたるバルザーン・イブラーヒーム・ハサンの娘サジャーと結婚した。サッダームは結婚によってウダイの性格が丸くなることを望んだが、結婚生活は長く続かず、僅か4日後にウダイはバグダードの高級ホテルで売春婦と暮らし始めた。結局、1年足らずで事実上の離婚となった。 1995年にはイッザト・イブラーヒームの娘と結婚したが、長くは続かず、翌年離婚した。
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