アフリカ現地調査へ
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「前野ウルド浩太郎」の記事における「アフリカ現地調査へ」の解説
博士研究員 (いわゆるポスドク) 3年目を迎えた2011年、前野は日本学術振興会海外特別研究員の審査に通過した。これにより年間380万円の支給を受けて、2年間のモーリタニア現地調査の機会を得ることとなる。この決断は後に「人生をかけたギャンブル」とも評されたが、当時は室内研究が主流であり、サバクトビバッタの野外観察はほとんど行われていなかったことから、新米研究員の自分でも楽に新発見を論文発表できるのではないか、との勝算が前野にはあった。しかし現地出立の1か月前には東日本大震災が日本を襲い、東北出身の前野も多くの知人が被災した。自身のモーリタニア渡航・滞在費用を日本国内の被災者支援に充当すべきではないか、との倫理的な葛藤を抱えつつ、2011年4月11日に前野はモーリタニアの地に上陸することとなった。 モーリタニア渡航から3か月後、ミドルネームの「ウルド」(Ould) をモーリタニア国立サバクトビバッタ防除センターのババ所長から授かり、以降の論文発表などでは「前野ウルド浩太郎」(英語論文ではMaeno, K.O.) のクレジットを使用するようになる。ババはサムライの国・日本から来た前野のことを「モーリタニアン・サムライだ」と評し、「○○の子孫」の意味を持ち、モーリタニアでは最高の敬意を払われるウルドの名を授けたのであった。前野がモーリタニア渡航前に感じていたように、先進国の研究者の多くはアフリカに来訪しないのが世界の研究実態であり、実験室内の研究に基づいて論文発表する有り様に、ババも強い問題意識を抱いていた。このような中、日本の被災者支援に後ろ髪を引かれる思いを断ち切ってモーリタニアに単身やってきた前野は、現地のバッタ問題解決に結びつけようと研究者としての真摯な姿勢を見せ、これにババが共鳴したことが「ウルド」命名につながった。 現地渡航前、前野はフィールドワークについて学術的に訓練を十分に積んでいたわけではなかったことから、現地でバッタを見つけると自然と疑問が湧いてきて、それを検証するために手法を自ら考えるアプローチをとった:4。そして、ババ所長からの手厚い支援も研究を後押しした:1。しかしながら、モーリタニア現地での研究生活は一筋縄にはいかなかった。モーリタニアの公用語はアラビア語であり、また実務ではフランス語も多用されているが、前野はフランス語が不得意で覚える気もなかったことから、日常生活に始まり、野外観察チームの編成や現地での論文プレゼンテーションに至るまで、言語の壁にぶつかる。 さらに追い打ちをかけたのが、2011年後半に発生したモーリタニア建国 (1960年) 以来の大干ばつである:2。この大干ばつは、サバクトビバッタのエサとなる植物の生育にも影響を与え、サバクトビバッタがほぼ見つからない日々が続いた:2:5。一般的にモーリタニアは7月から8月が雨季で、短期集中型の大雨を降らす。9月から10月は休耕期であり、11月が最も農期に適している。しかし雨季の降水不足により、家畜のヤギにとってのエサである植物の葉が育たなかったことから、根まで食べつくし、砂漠化に拍車がかかった。 前年の2010年は幸いにも大雨の年であったことから、前野が渡航した2011年4月頃までは例年以上に植物が残っており、小規模ながらもサバクトビバッタの野外調査を行うことができた。しかし来る干ばつを予想していなかったことから、野生のサバクトビバッタを捕獲して研究所で飼育しておらず、研究材料が乏しい状況に追い込まれた。この間、サバクトビバッタに懸賞金を設定して現地の子供たちに捕獲協力を仰いでみたり、身近にいるゴミムシダマシに研究対象を変えてみたりと、論文執筆のネタ探しに苦闘する。また、東海大学出版会が若手研究者を執筆者の条件とした〈フィールドの生物学〉シリーズ企画を前野に持ち込んだことから、後に出版される『孤独なバッタが群れるとき』執筆に時間を充てることとなった。 最終的に、モーリタニアでの初年度野外調査はこれ以上困難と判断し、前野は世界有数のバッタ研究で知られているフランス農業開発研究国際協力センター(英語版、フランス語版) (Centre de coopération internationale en recherche agronomique pour le développement、略称: CIRAD) に招かれて、2012年4月から9月にかけてフランスで過ごすこととなった。同センター研究員で統計学を得意とするシリル・ピウ (Cyril Piou) が過去にモーリタニア国立サバクトビバッタ防除センターを訪れて以来、前野は遠隔でピウと共同研究を進めていた縁もあり、この渡仏が実現したのであった。以降、前野はピウと共著論文を複数本発表している。 フランスからモーリタニアに戻った2012年9月 (雨季を経て徐々にサバクトビバッタが出現し始める時期) 以降、サバクトビバッタの野外生態調査を精力的に行っていくことになる。サバクトビバッタの生息域である砂漠では、昼夜の寒暖差が摂氏30度程度もある。バッタは変温動物であり、冬場の早朝は摂氏5度付近まで下がるため、動きの鈍るサバクトビバッタが天敵からどのように身を守っているのか、また飛来後どこに着陸するのかなどを調査した。これは防除策を考案するにあたり、サバクトビバッタの弱点や習性を生物学的に把握する必要があったためである。前野は連日、砂漠で野営しながら、そして地雷地帯を注意深く避けながら、サバクトビバッタが隠れる植物の場所などを昼夜で比較調査していった:3。 初めてサバクトビバッタの大群を目撃したのは、2012年12月頃から開始した野外調査のタイミングであり、その様子を前野は「黒い雲のように不気味に蛇行しながら移動していた」と描写している。あまりの大群に圧倒され、今までのバッタ問題解決の意気込みが無知ゆえの無謀さだったと気づく。と同時に、誰もが手をこまねいているサバクトビバッタ防除への使命感も人一倍強く胸に秘めることとなった。 日本学術振興会からの助成期間である2年は2013年4月上旬に満了を迎えた。しかし前野は就職活動らしきものを積極的に行っておらず、アフリカ滞在を延長して好きなサバクトビバッタの野外研究を継続するか、日本に戻って別の昆虫を対象に研究機関から給与をもらう安定した生活を選ぶか、決断を迫られた。幸いにも、日本の国立研究開発法人国際農林水産業研究センター (JIRCAS) が国際共同研究人材育成推進・支援事業 (農林水産省からの委託事業) の一環で、発展途上国の農林水産問題に取り組む国際組織である国際農業研究協議グループ (CGIAR) に若手研究者を派遣するプログラムを運営しており、これに前野は2年度連続で合格したことから、年間約200万円の研究費支援を受けることとなった。受入先はババ所長のいるモーリタニア国立サバクトビバッタ防除センターがその役目を継続した。金銭的に余裕がない中、JIRCAS-CGIARからの支援は野外調査やアシスタントの雇用費に充て、食費は貯金から捻出して、前野は現地調査を続けていった。
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