アフリカ沿岸航行
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/17 01:05 UTC 版)
「ヴァスコ・ダ・ガマ」の記事における「アフリカ沿岸航行」の解説
バルトロメウの随行艦を含めた5隻は、貿易風を使うには季節外れの時期に西アフリカを南下した。途中濃霧のためにはぐれた艦もあったが、事前の申し合わせ通りそれぞれヴェルデ岬を目指し、7月26日には再び集結できた。随行艦はここまでで4隻となった艦隊はシエラレオネ付近から沿岸を離れ大西洋を大きく回りこむ海路を取って再びアフリカのセント・ヘレナ湾に辿りついた。ここまで約3ヶ月を要し、一行は11月9日に久しぶりに上陸した。ここから再び沿岸を航行し、途中現地住民との接触も持ちながら22日に喜望峰を通過した。25日にはサン・ブラス湾に寄港し、予定通り貨物船を解体して荷物を積み替え、艦隊は3隻となった。12月17日にはバルトロメウが到達した最遠地であるインファンテ川(グレート・フィッシュ川)に到達し、20日には追い風を受けてそこを出発した。こうしてヴァスコ一行はポルトガル人未踏の海域に入った。 北上へ転回した頃から壊血病を発症して命を落とす船員が出始めていた。また、そろそろ地理的にイスラムの影響が及ぶスワヒリ文明の土地に入ることもあり、ヴァスコは警戒を強めていた。もともと1492年にグラナダを征服し、イスラム教徒の王を海の向こうに追い払ったばかりのイベリア半島からやってきたポルトガル人たちはアラビア語を話すムスリム(当時のヨーロッパ諸語の文献でしばしばムーア人と呼称される)に対し妄想に近い強い警戒感を持っていたのである。1498年3月2日にその最南端に当るモザンビークで接触したスワヒリ族(英語版)の中にアラビア語をしゃべるイスラム教徒がおり、これは領主(シェク)の使者であった。 モザンビークにやってきた一行は、この町の住民の多くがアラビア語を話すムスリムであることに気がつき警戒を強めた。日曜の礼拝を行っている姿を住民に見られ、自分たちがキリスト教徒であることを見破られるのを防ぐため、船も沖に泊めた。案内人と水と食料を確保するための交渉は思うように進まず、とうとうヴァスコは武力の行使により水を奪うことを決意した。そして水場を守るモザンビークの人々にいきなり砲撃を浴びせ、抵抗を突破、地元の人二人を殺し、何人かを捕らえ人質にした。また、地元の船二隻とその積み荷も奪った。翌日、意気揚々と再び水場を訪れたポルトガル人は無抵抗で水を手に入れると、そのまま市街に入ってその中心で銃を何発か放った。ヴァスコの船隊に加わっていた一人の人物の記録によると、「ムーア人は家の中にとどまり、誰一人浜まで出てこようとしなかった」という。暴力的に必要な物資を調えた船隊は、その翌々日に風を得て北へと去った。この水域の慣行を無視し、港の使用料を払わないままだった。 その後、モンバサで柑橘類を手に入れたが、モザンビークで捕らえていた捕虜が逃げ出したため、ヴァスコ一行は陸地との連絡をあきらめ、逆にイスラム教徒の船を拿捕した。向かったマリンディで捕虜を解放したが、ヴァスコは当地の国王から受けた再三の招待を断り上陸しなかった。いずれの港でも指揮官のヴァスコや各船の船長は、決して船からおりて陸には上がらず、乗組員も港町側と人質を交換した後でなければ、容易に陸地には降り立たなかった。これらは他地域からの商船がしばしば訪れる東アフリカ海岸諸都市の慣習にはおよそそぐわない不自然で不可思議な行為だった。ここで一行はインド人との接触に成功する。その席で彼らが聖母マリアや十二信徒らの絵に伏したため、ヴァスコらはインド人がキリスト教を崇拝していると信じきった。その後国王へ要請していたキリスト教徒の水先案内人を得たが、実態はヒンドゥー教徒のインド人だった。
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