歴代城主とは? わかりやすく解説

歴代城主

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館林城」の記事における「歴代城主」の解説

家名説明藩主名、在任期間石高 榊原氏三代続いたが、寛永20年1643年)に陸奥白河転封したためその後館林領は一時天領となった榊原康政 天正18年1590年) - 慶長11年1606年10万榊原康勝 慶長11年1606年) - 元和元年1615年10万榊原忠次 元和元年1615年) - 寛永20年1643年11万石 大給松平家正保元年1644年)、遠江浜松から老中松平乗寿が6万石館林城入り、その跡を乗久が継いで寛文元年1661年)に下総佐倉転封した。 松平乗寿 正保元年1644年) - 承応3年1654年) 6万石 松平乗久 承応3年1654年) - 寛文元年1661年) 5.3万石 館林徳川家4代将軍徳川家綱の弟綱吉10万石の加増を受け25万石で入封した。延宝8年1680年)に綱吉家綱養子になって5代将軍になると、その子徳松家督継いだが、天和3年1683年)に徳松急死する廃藩となって再び天領となった。この時、城は壊されている。 徳川綱吉 寛文元年1661年) - 延宝8年1680年25万石 徳川徳松 延宝8年1680年) - 天和3年1683年25万石 越智松平家宝永4年1707年)、松平清武が24千石で入封し、宝永7年1710年)には1万加増正徳2年1712年)には2万石加増されて5万4千石となったその後清武の跡を養子武雅が継いだ松平清武 宝永4年1707年) - 享保9年1724年5.4万石 松平武雅 享保9年1724年) - 享保13年1728年5.4万石 太田氏松平武雅の跡を養子武元が継いだが、武元が家督相続した日に陸奥棚倉転封になり、同地から太田資晴5万石で入封した。若年寄太田資晴享保19年1734年)に大坂城代となり、そのため館林領は再度天領となり、城番置いた元文5年1740年)、太田資晴の子資俊が5万石で入封するも、延享3年1746年)に遠江掛川転封となった太田資晴 享保13年1728年) - 享保19年1734年5万太田資俊 元文5年1740年) - 延享3年1746年5万石 越松平家太田資俊の後は陸奥棚倉より松平武元5万4千石で入封した。松平武元明和6年1769年)に7千石加増受けて61千石となった。武元の後は、武寛、斉厚と続いて、斉厚は天保七年1836年)に石見浜田転封となった松平武元 延享3年1746年) - 安永8年1779年) 6.1万石 松平武寛 安永8年1779年) - 天明4年1784年) 6.1万石 松平斉厚 天明4年1784年) - 天保7年1836年) 6.1万石 井上氏井上正春が6万石陸奥棚倉より入封し、弘化2年1845年)には遠江浜松転封井上正春 天保7年1836年) - 弘化2年1845年) 6万石 秋元氏井上正春の後は、出羽山形から秋元志朝が6万石で入封した。秋元志朝は、文久2年1862年)に雄略天皇陵の修復着手する元治元年1864年)に養子の礼朝が襲封する。礼朝は戊辰戦争時、新政府軍加担関東東北方面戦争部隊派遣した館林藩明治3年1870年)に廃藩して館林県となった秋元志朝 弘化2年1845年) - 元治元年1864年) 6万石 秋元礼朝 元治元年1864年) - 明治2年1869年) 6万石

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此隅山城」の記事における「歴代城主」の解説

山名時義:父時氏と共に南朝から帰参した。 山名時熙:時義の子足利義満から討伐受けたが、復権した。 山名持豊山名宗全):時熙の三男応仁の乱西軍首領山名教豊:宗全の嫡男山名政豊:教豊の子。 山名致豊:政豊の次男山名誠豊:致豊の弟。 山名祐豊:致豊の次男。 表 話 編 歴 出石名所・旧跡・観光スポット出石城 有子山城 有子山稲荷神社 感応殿 辰鼓楼 宗鏡寺 願成寺 諸杉神社 石部神社 出石家老屋敷 出石史料館 伊藤清永記念館 明治館 永楽館 見性寺 経王寺 入佐山公園 おりゅう灯籠 武家長屋資料館 静思堂 伊福部神社 出石神社 出石古代学習館 此隅山城 出石温泉乙女の湯 ひぼこホール この項目は、日本の歴史関連した書きかけの項目です。この項目を加筆・訂正などしてくださる協力者求めています(P:歴史/P:歴史学/PJ日本史)。

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霧山城」の記事における「歴代城主」の解説

北畠氏9代が240年渡って霧山城に拠った。 初代北畠顕能 2代北畠顕泰 3代北畠満雅 4代北畠教具 5代北畠政郷 6代北畠材親 7代北畠晴具 8代北畠具教 9代:北畠具房

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松ヶ嶺城」の記事における「歴代城主」の解説

初代岡本重親 生没年不詳 2代岡本正重 永正3年1506年)? - 天文7年1538年)? 3代岡本正親 享禄元年1528年)生~慶長7年1602年8月9日4代岡本氏宗生年不詳天正13年1585年3月25日没 ※岡本氏宗については、正親塩谷の地を追われていた僅かな期間に城主であった推定される。したがって最後城主となるのは正親である。

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郡山城 (大和国)」の記事における「歴代城主」の解説

何代城主初代城主2代城主3代城主4代城主5代城主6代城主7代城主8代城主城主郡山筒井順慶 豊臣秀長 豊臣秀保 増田長盛 大久保長安 山口直友 筒井定慶 何代城主9代城主10代城主11城主12城主13城主14城主15城主16城主城主名水野勝成 松忠明 本多政勝 本多政長 松平信之 本多忠平 本多忠常 本多忠直 何代城主17城主18城主19城主20代城主21城主22城主23城主24城主城主名本多忠 本多忠烈 柳沢吉里 柳沢信鴻 柳沢保光 柳沢保泰 柳沢保興 柳沢保申 また柳沢神社創立時植えられ日本さくら名所100選にも選ばれ毎年4月1日ら行われる「お城まつり」には多く花見客でにぎわう。

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勝山城 (安芸国)」の記事における「歴代城主」の解説

粟屋隆信詳細は「粟屋隆信」を参照 戦国時代後期~ 安土桃山時代高田郡粟屋町勝山城主。享禄4年1531年)~ 天正19年1591年三吉豊後守 天元年1532年)- 天正15年1587年)。三吉豊高の四男(三吉致高の弟)、三吉原村沼城主、三吉三郎右衛門息子父親三郎右衛門討死天文9年1540年)。初めは新四郎または之助。豊後守を名乗った頃に沼之城の城主となり、粟屋隆信の跡に城番仰せられ勝山城入城55歳病死三吉四郎 家督相続の後しばらくして 太閤殿下時代下山し志和地内田土居移ったいつかは不明)。このときに勝山城廃城となった

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月山富田城」の記事における「歴代城主」の解説

佐々木義清出雲隠岐守護1221年承久3年)-。 佐々木泰清出雲隠岐守護富田義泰 富田師泰 富田秀貞 吉田厳覚:佐々木高氏守護代1343年南朝興国4年北朝康永2年)-。 富田秀貞山名時氏目代1364年南朝正平19年北朝貞治3年)-。 山名師義 山名時義 山名満幸 塩冶師高:山名満幸目代京極高詮出雲国守護1392年明徳3年)-。 尼子持久京極高詮守護代1395年応永2年)-。 尼子清定出雲国守護代1467年応仁元年)頃-。 尼子経久出雲国守護代であったが、1484年文明16年追放される1486年文明18年富田城占拠。-1537年天文6年家督を譲る。 (塩冶掃部介):出雲国守護代1484年文明16年)-1486年文明18年戦死尼子晴久1537年天文6年)-1560年永禄3年尼子氏最盛期創出するもその最中急死尼子義久1560年永禄3年)-1566年永禄9年元就率い毛利軍攻められ落城福原貞俊毛利氏城代口羽通良毛利氏城代天野隆重毛利氏城代1567年永禄10年)-1569年永禄12年)。 毛利元秋:城督。1569年永禄12年)-1585年天正13年病没末次元康:城督。1585年天正13年)-1591年天正19年吉川元春山陰諸国総管吉川広家豊臣秀吉から東出雲隠岐、西伯耆12万石与えられる1591年天正19年)-1600年慶長5年岩国転封堀尾吉晴出雲隠岐235千石領主となり松江城を築く。1600年慶長5年)-1611年慶長16年病没堀尾忠晴1611年慶長16年廃城とし、松江城に移る。

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犬山城」の記事における「歴代城主」の解説

累代人名在位期間備考1 織田信康 天文6年 - 天文16年西暦換算1537年 - 1547年) 今に伝わる犬山城築城主 2 織田信清 天文16年 - 永禄7年西暦換算1547年 - 1564年) 3 池田恒興 元亀元年 - 天正9年西暦換算1570年 - 1581年) 4 織田勝長 天正9年 - 天正10年西暦換算1581年 - 1582年) 5 中川定成 天正10年 - 天正12年西暦換算1582年 - 1584年) 6 池田恒興 天正12年西暦換算1584年) 7 加藤泰天正12年西暦換算1584年) 8 武田清利 天正12年 - 天正15年西暦換算1584年 - 1587年) - (城代土方雄良 天正15年 - 天正18年西暦換算1587年 - 1590年) ※累代に含む考えもあり - 三好吉房 天正18年 - 文禄元年西暦換算1590年 - 1592年1591年から豊臣秀勝? 9 (城代三輪吉高 文禄元年 - 文禄4年西暦換算1592年 - 1595年10 石川貞清 文禄4年 - 慶長5年西暦換算1595年 - 1600年11 小笠原吉次 慶長5年 - 慶長12年西暦換算1600年 - 1607年12 平岩親吉 慶長12年 - 慶長17年西暦換算1607年 - 1612年末裔大相撲大関7代目伊勢ヶ濱親方清國勝雄夫人落語家林家木りんの母)がいる。 13 成瀬正成 元和3年 - 寛永2年西暦換算1617年 - 1625年犬山成瀬家 初代当主犬山藩初代藩主14 成瀬正虎 寛永2年 - 万治2年西暦換算1625年 - 1659年犬山成瀬家 第2代当主 15 成瀬正親 万治2年 - 元禄16年西暦換算1659年 - 1703年犬山成瀬家 第3当主 16 成瀬正幸 元禄16年 - 享保17年西暦換算1703年 - 1732年犬山成瀬家4代当主 17 成瀬正泰 享保17年 - 明和5年西暦換算1732年 - 1768年犬山成瀬家5代当主 18 成瀬正典 明和5年 - 文化6年西暦換算1768年 - 1809年犬山成瀬家6代当主 19 成瀬正寿 文化6年 - 天保9年西暦換算1809年 - 1838年犬山成瀬家 第7代当主 20 成瀬正住 天保9年 - 安政4年西暦換算1838年 - 1857年犬山成瀬家 第8代当主 21 成瀬正肥 安政4年 - 明治2年西暦換算1857年 - 1869年/1870年)明治28年 - 明治36年西暦1895年 - 1903年犬山成瀬家 第9代当主犬山藩最後藩主廃城処分によっていった城主なくなったが、廃城後所有者であった県 から無償譲渡されて再び城主となった22 成瀬正明治36年 - 昭和24年西暦1903年 - 1949年犬山成瀬家 第10代当主 23 成瀬正勝 昭和24年 - 昭和48年西暦1949年 - 1973年犬山成瀬家11当主 24 成瀬正俊 昭和48年 - 平成16年西暦1973年 - 2004年犬山成瀬家 第12代当主 25 成瀬淳子 平成16年西暦2004年犬山成瀬家 第13代当主成瀬正浩の妹で、最後城主となり、個人所有から法人所有への移管行った

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岐阜城」の記事における「歴代城主」の解説

二階堂氏及び伊賀氏 二階堂行政二階堂氏の祖、鎌倉幕府政所令、十三人の合議制一人稲葉山初め館後に砦を築き京都への押さえとした。 伊賀朝光二階堂行政娘婿伊賀光宗佐藤朝光の次男鎌倉幕府政所執事伊賀氏の変結果北条政子により信濃国流される稲葉光資:伊賀光宗の弟。稲葉氏改姓伊賀氏美濃安藤氏)の祖。 二階堂行藤二階堂行有の子鎌倉幕府政所執事二階堂氏最後館主以後、約153年廃城美濃斎藤氏及びその家臣 斎藤利永二階堂行藤去ったあと長く城郭失われていた稲葉山城修築して居城とした。 斎藤妙椿斎藤利永の弟。応仁の乱における主力一人常在寺瑞龍寺建立した斎藤利藤斎藤利永嫡男。母違いの弟で妙椿養子、利国と争い最終的に敗北した斎藤利茂斎藤利藤養子息子斎藤利安長井長弘)に破れ稲葉山城追われた。(落城1回目長井新左衛門尉長井長弘家臣。元は京都妙覚寺出身の僧。後に利安を殺害したといわれる斎藤道三長井新左衛門尉嫡男長良川の戦い敗れ戦死享年63斎藤義龍斎藤道三嫡男。道三を破り信長何度も撃退したが、急死享年35斎藤龍興斎藤義龍嫡男竹中重治らに城を奪われる。のち返還される織田信長によって再び落城龍興自身刀禰坂の戦い戦死享年26。(落城2,3回目安藤守就斎藤龍興家臣西美濃三人衆半年間、稲葉山城占拠した本能寺の変乗じて乱を起こし自害享年80織田氏及び豊臣氏家臣 織田信長斎藤道三娘婿京都本能寺自害享年49織田信忠織田信長嫡男京都妙覚寺から二条新御所移動し戦死享年26斎藤利堯斎藤道三の子信忠家臣であり本能寺の変の際に岐阜城掌握した織田信孝織田信長三男賤ヶ岳の戦いの後、岐阜城落とされ尾張知多郡内海自害享年26。(落城4回目池田元助池田恒興嫡男小牧・長久手の戦いにおいて父子共に討死享年26池田輝政池田恒興次男。後に姫路宰相百万石評され姫路城修築した。姫路死去享年50豊臣秀勝豊臣秀吉の姉(日秀尼の子総大将として朝鮮出陣したが、巨済島にて病死享年23織田秀信織田信忠嫡男清洲会議での三法師高野山追放された年に死亡享年26。(落城5回目

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中野城 (出羽国)」の記事における「歴代城主」の解説

中野満基 最上満氏最上家当主山形城居住。) 最上義淳最上家当主山形城居住。) 中野建 中野義清 中野義時

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鷺山城」の記事における「歴代城主」の解説

佐竹氏 佐竹秀義 土岐氏 土岐政房美濃守護。父土岐成頼と弟土岐元頼倒し家督継いだ船田合戦)。 土岐頼武:政房の子越前朝倉氏支援により、父の政房や弟の頼芸と争った土岐頼純:頼武の子。頼武と頼芸の和睦により守護就任した1年死去した土岐頼芸:政房の子。兄・土岐頼武勝利し守護就任したが、斎藤道三下克上された。 斎藤氏 斎藤道三:頼芸の家臣長良川の戦いにより、嫡子斎藤義龍敗れ戦死した

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明石城」の記事における「歴代城主」の解説

苦心して明石城築城した小笠原忠真は、1632年寛永9年豊前小倉藩小倉城)に転封となった。翌1633年寛永10年信濃松本藩より 松平庸直戸田氏)が7万石入城したが、急死したため松平光重城主となった。しかしその松平光重1639年寛永16年) が美濃加納藩加納城)に転封となると大久保忠職が7万石入城したが、1649年慶安2年)のわずか10年間で肥前唐津藩唐津城)に転封する。 その後丹波篠山藩より松平忠国が7万石入城その子松平信之と共に名君として知られ林崎掘割用水路や一里塚設置海岸防風林造成、そして多く新田開発努めた文化人でもあったらしく城内十景選んでこの時に「喜春城」の名を付けた。しかしその松平信之も、1679年延宝7年大和郡山藩郡山城 (大和国))に転封となると代わりに郡山城にいた本多政利が6万石入城する。しかし、領内収める事ができず1682年天和2年) 僅か3年後苛政責められ陸奥岩瀬藩1万石に減知転封となり、その後改易になった。僅か50年の間に城主目まぐるしく入れ替わったが、本多氏転封の後、越前家松平直明が6万石入城し以後明治維新まで10代189年親藩として松平氏居城となった。各城の遺材を集めて築城したせいか、老朽化早く第2代藩主松平直常1739年元文4年)には大修築が行われた。最後明石城主は松平直致で、1874年明治7年廃城令により廃城となる。 17代にわたる歴代城主は、下記テンプレートの「戸田松平氏明石藩初代藩主 (1633-1634)」も参照

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加古川城」の記事における「歴代城主」の解説

加古川城城主は、糟屋氏12代に渡った初代 有教 - 文永5年3月8日 (旧暦)1268年4月14日)に没した2代 季方 - 生涯風月を楽しみ、数多く和歌残した永仁6年8月15日 (旧暦)1298年9月21日)に没した3代 久祠 - 播磨守護赤松則村属し元弘3年3月10日 (旧暦)1334年4月24日)の瀬川合戦にて戦死した4代 保連 - 守護職赤松則祐属して戦功多い。永徳元年10月1381年10月西宮戦死した5代 保久 - 河内森口その他諸処の戦に功績があり、明徳3年3月20日 (旧暦)1392年5月6日)に没した6代 秀長 - 守護職赤松義則属し応永6年1400年12月堺ノ浦にて大内義弘との戦いで死去した官位民部小輔。 7代 武貞 - 守護職赤松満祐属し嘉吉元年1441年9月満祐の子赤松教康奉じて伊勢に赴き自害した官位豊前守8代 有範 - 守護職赤松政村重臣となった永正8年1511年8月船岡山合戦にて戦死した官位左近衛将監。 9代 武久 - 細川高国属し大永7年1527年2月桂川原の戦いにて戦功をたて、天文8年1539年三木の戦で戦死した官位左衛門尉10代 朝貞 - 細川晴元重臣となり、天正4年1576年没した官位豊後守。 11代 朝正 - 別所長治属し天正7年2月6日 (旧暦)1579年3月3日三木平山役に戦死した。子朝員は隠居した官位玄蕃助。 12武則 - 豊臣秀吉属し戦功多く活躍した晩年については諸説あり。

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岩村城」の記事における「歴代城主」の解説

岩村遠山氏遠山景朝源頼朝重臣加藤景廉の子遠山頼景 遠山景友 遠山景前 遠山景任元亀3年1572年12月城中にて病死おつやの方天正3年1575年11月織田家投降した刑死武田氏秋山信友天正3年1575年11月織田家投降した刑死織田氏河尻秀隆天正10年1582年6月甲斐にて武田遺臣により殺害される団忠正天正10年1582年6月本能寺の変により死去森氏各務元正岩村城接収した森長可家老。鬼兵庫呼ばれた田丸氏田丸直昌北畠氏庶流関ヶ原の戦い西軍属し改易徳川氏松平家乗十八松平大給松平家関ヶ原の戦いでは吉田城 (三河国)守備した丹羽氏

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山形城」の記事における「歴代城主」の解説

山形藩最上氏参照最上氏 (1356 - 1622)(近世以前省略最上義光 最上家親 最上義俊 鳥居氏 (1622 - 1636)鳥居忠政 鳥居忠恒 保科氏 (1636 - 1643)保科正之 越前松平家 (1644 - 1648)松平直基 松平氏 (1648 - 1668)松平忠弘 奥平氏 (1668 - 1685)奥平昌能 堀田氏 (1685 - 1686)堀田正仲 越前松平家 (1686 - 1692)松平直矩 松平氏 (1692 - 1700)松平忠弘 松平忠雅 堀田氏 (1700 - 1746)堀田正虎 堀田正春 堀田正亮 大給松平家 (1746 - 1764)松平乗佑 天領 (1764 - 1767) 秋元氏 (1767 - 1845)秋元凉朝 秋元永朝 秋元久朝 秋元志朝 水野氏 (1845 - 1870)水野忠精 水野忠弘

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太田城 (常陸国)」の記事における「歴代城主」の解説

藤原通延など藤原氏 佐竹隆義 佐竹秀義 佐竹義重 佐竹長義 佐竹義胤 佐竹行義 佐竹貞義 佐竹義篤 佐竹義宣 佐竹義盛 佐竹義人(義憲、義仁) 佐竹義俊 佐竹義治 佐竹義舜 佐竹義篤 佐竹義昭 佐竹義重 佐竹義宣久保田藩秋田藩」の初代藩主1600年勃発した関ヶ原の戦い後1602年常陸54万石から出羽久保田18万石減封された。) 中山氏水戸藩家老

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歴代城主

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宇都宮城」の記事における「歴代城主」の解説

平安時代中期から後期築城されたとされる宇都宮城は、代々藤原宗円を祖とする下野宇都宮氏一族拠点として受け継がれといわれる。なお、戦国期には一時塩谷氏壬生綱房などの壬生氏一族皆川俊宗占拠され時期があったが、以下の一覧にはこれを含めていない。 藤原宗円康平6年 - ) 八田宗綱 宇都宮朝綱 宇都宮成綱 宇都宮頼綱 宇都宮泰綱 宇都宮景綱 宇都宮貞綱 宇都宮公綱 宇都宮氏綱 宇都宮基綱 宇都宮満綱 宇都宮持綱 宇都宮等綱 宇都宮明綱 宇都宮正綱 宇都宮成綱文明9年永正13年宇都宮忠綱永正13年大永3年宇都宮興綱大永3年天文5年宇都宮尚綱天文5年 - 同18年宇都宮広綱弘治3年天正4年宇都宮国綱天正4年慶長2年浅野長政慶長2年 - 同3年蒲生秀行慶長3年 – 同6年大河内秀綱慶長6年 – 同7年奥平家昌慶長7年 – 同19年奥平忠昌元和元年 – 同5年本多正純元和5年 – 同8年奥平忠昌元和8年寛文8年奥平昌能寛文8年 – 同9年松平忠弘寛文9年天和元年本多忠平天和元年貞享2年奥平昌章貞享2年元禄8年奥平昌成元禄8年 – 同10年阿部正邦元禄10年宝永7年戸田忠真宝永7年享保14年戸田忠余享保14年延享3年戸田忠盈延享3年寛延2年松平忠祇寛延2年宝暦12年松平忠恕宝暦12年安永4年戸田忠寛安永4年寛政10年戸田忠翰寛政10年文化8年戸田忠延文化8年文政6年戸田忠温文政6年 - 嘉永4年戸田忠明嘉永4年 - 安政3年戸田忠恕安政3年 - 慶応4年戸田忠友慶応4年 - 明治4年

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歴代城主

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鶴ヶ城 (美濃国)」の記事における「歴代城主」の解説

土岐氏とその一族 土岐光衡土岐氏の祖。源頼朝仕えた土岐光行:光衡の子土岐光定光行の子得宗家から妻を迎えた土岐頼貞光定の子後醍醐天皇の詔を受け、討幕軍に加わった延友信光織田家属し岩村城秋山信友対峙した。 織田氏家臣 河尻秀隆織田家重臣秋山信友対峙した。 森氏家臣 関武兵衛森可政娘婿林為忠若年だった関武兵衛代わり城代勤めた

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歴代城主

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/25 19:43 UTC 版)

天童城」の記事における「歴代城主」の解説

北畠氏 北畠天童丸 - 北畠種。北畠顕家の子孫とも、北畠顕信の子孫ともいう。文中年間1372年1374年最上氏圧力により天童城去ったとされる斯波氏天童氏 天童頼直 - 最上直家実子里見義宗斯波兼頼末弟。)の養子に入る。成生から北畠天童丸去った天童城に移る。その後天童氏名乗ったとされる天童頼勝 - 里見修理大夫 天童頼泰 天童頼基 天童頼氏 天童頼尚 天童頼道 - 中務少輔 天童頼長 - 式部少輔 天童頼貞 - 和泉守 天童頼澄 - 甲斐廃城(諸説あり)

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歴代城主

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大胡城」の記事における「歴代城主」の解説

大胡氏 横瀬氏(このほか前述様に益田氏上泉氏にも城主説がある。) 北条高広 大胡高繁 牧野康成 牧野忠成

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歴代城主

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堀江山城」の記事における「歴代城主」の解説

堀江氏(源姓塩谷氏)時代 堀江頼純 - 堀江山城築城 堀江惟純 堀江惟頼 堀江正義 堀江朝義 重興塩谷氏時代 岡本大隅 - 天正7年(1579年)正月28日及び2月5日付の書状が残る岡本大隅守道家 岡本備前 - 沢村城岡本備前守か? 岡本清五郎 - 岡本正親嫡男岡本清四郎か? ※城主は、塩谷孝綱家臣として文献に残る順で記したもので、年代順ではない可能性が高い。

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