土岐頼芸
土岐頼芸(とき よりあき) 1502~1582
土岐頼芸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/09 06:17 UTC 版)
土岐 頼芸(とき / よりのり/ よりあき / よりなり / よりよし)[注釈 2]は、戦国時代の美濃国の守護大名。土岐政房の次男。
注釈
出典
- ^ “土岐頼芸の読み方は「よりのり」? 大河ドラマでも変遷、新資料発見”. 毎日新聞. (2021年9月8日)
- ^ 小和田哲男『明智光秀・秀満』ミネルヴァ書房〈ミネルヴァ日本評伝選〉、2019年、41-42頁。
- ^ 佐藤圭「土岐大膳大夫入道宛朝倉義景書状」、『龍ヶ崎市史研究』9号、1996年
- ^ 『夷隅町史 資料集』、2002年
- ^ 滝川恒昭執筆文『夷隅町史 通史編』、2004年、183-184頁
- ^ 等光寺|土岐頼藝の遺子大圓が創建
土岐頼芸
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 16:10 UTC 版)
美濃の守護大名・土岐政頼の弟。兄との相続争いに敗れた後、郊外の鷺山に館を与えられて逼塞し、以後毎日遊芸に明け暮れて生活していた。しかし長井利隆が連れてきた道三を知りその多種多芸な才に魅了され、閑暇を持て余してたことから無聊の慰め役として臣下に加える。道三が魔術的な策謀で自身を守護職に就けたことによって改めて道三に傾倒し、無二の能臣として大いに寵愛した。その日常は懶惰を極め、昼夜を問わず酒色に耽るばかりの生活を送っている。唯一の取り柄は画才で、その筆による鷹の絵は「土岐の鷹」と呼ばれて京の好事家の間で珍重されているが、画才がなければ何のためにこの世に存在してるかわからないような人物。怠惰で多情であるという頼芸の人物を見抜いた道三は、酒色に惑溺させて政務から遠ざけ、自身が美濃国の実権を握った。
※この「土岐頼芸」の解説は、「国盗り物語」の解説の一部です。
「土岐頼芸」を含む「国盗り物語」の記事については、「国盗り物語」の概要を参照ください。
固有名詞の分類
- 土岐頼芸のページへのリンク