斯波兼頼
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斯波 兼頼(しば かねより)は、南北朝時代の武将。最上 兼頼(もがみ かねより)とも呼ばれる。奥州探題斯波家兼の次男で、羽州探題最上氏の祖。
注釈
- ^ 「光明寺由来記」に拠って1316年生まれとした場合[1]、1327年生まれの兄・大崎直持よりも年長となり、また父・斯波家兼が9歳の時の子となってしまう。また、1336年に相馬氏と共に北畠顕家と戦った際、元服前の兼頼が氏家道誠の後見を受けていることなどから1316年生まれ説には異論がある[誰によって?]。
- ^ 天童義宗は『系図纂要』によれば[要ページ番号]持義と同一人物であり、『続群書類従』によれば[要文献特定詳細情報]塩松伊予守持義にあたる。
- ^ 『会津四家合考』巻10(附録「家譜考」)収載の「大崎家譜」によれば延文3年(1358年)8月3日に山形に入る[9]。
- ^ 武蔵平一揆の乱、宇都宮氏綱、新田義宗、脇屋義治などが蜂起・挙兵している。
出典
- ^ a b 「光明寺由来記」[要文献特定詳細情報]
- ^ 持頼式部大輔西室殿、『続群書類従』5上(系図部)。
- ^ 『大日本史料』延元元年3月8日条(6編3冊185頁)、「相馬文書」
- ^ 『大日本史料』延元元年3月22日2条(6編3冊242頁)、「相馬岡田雑文書」
- ^ 『大日本史料』建武4年2月6日条(6編4冊72頁)、「相馬文書」。
- ^ 『大日本史料』延元元年3月8日条(6編3冊185頁)、「相馬文書」(裏書)氏家道誠注進状案、暦応2年3月20日付
- ^ 『系図纂要』巻64、清和源氏(13)最上氏
- ^ a b 「光明寺由来記」『寒河江市史』上巻、p. 508。
- ^ 『会津四家合考 二 南部根元記 全』国史研究会〈国史叢書〉、1914年、p. 170、NDLJP:985957。“兼頼/羽州最上之祖、延文三年八月三日下向最上山形〇持直舎弟”
- ^ 『寒河江市史』上巻、p. 509。
- ^ 『寒河江市史』上巻、p. 511。
- ^ 持頼式部大輔西室殿、続群書類従、5上(系図部)。
- ^ 『山形県史』第1巻(原始・古代・中世編)、1982年、国立国会図書館書誌ID:000001571745。『寒河江市史』上巻、p. 509。
- ^ 松尾剛次 (2014年9月26日). “光明寺本『遊行上人縁起絵』をめぐる謎を解く”. 最上義光歴史館. 2024年3月16日閲覧。 “光明寺は、最上氏の祖とされる斯波兼頼(1315–1379)が隠居して開いた寺院である。[...] 光明寺は、かつては城内でも本丸内にあったが、第十七世の其阿俊山の時代の文禄年中(1592–96)に、本丸内を出て、山形城東門の前に移転したという注目すべきことがわかる。また、兼頼および代々の遺骨も移し、霊屋を建てたという。”
- ^ 小林清治. "最上氏". 改訂新版 世界大百科事典. コトバンクより2024年3月16日閲覧。
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