織田氏家臣
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永禄7年(1564年)2月7日、守就は立政寺に禁制を与えている。この禁制で「伊賀守 無用」と称していることから、守就自ら、斎藤家に対して無用の家臣となったことを公に示したものである。あるいは若年の斎藤龍興では、己と一族子孫の生涯を任せられる主たりえない、といった意味も含まれているのかも知れないとされている。 永禄10年(1567年)、信長の美濃侵攻軍に対して他の三人衆らと共に内応し、そのまま信長の家臣として仕えた。その後は永禄11年(1568年)の上洛戦、元亀元年(1570年)の姉川の戦いなどにも参加している。元亀2年(1571年)の伊勢長島攻めでは三人衆の氏家直元が殿を務めて戦死しているが、守就もこの戦闘に参加しており負傷している。 永禄11年(1568年11月16日付で、守就が曲直瀬道三に発給した書状によると、上洛した際に道三と面識を有し、道三の世話になったようである。帰国後も名残惜しく、以後一層の交流を望んでいる様子が窺える(『曲直瀬家文書』)。このような道三との緊密な交友を図る守就の意中には、道三の卓越した政治見識を学び、中央の政局と信長の内情を探ろうとする目的があったのではないかとされている。 以後も、天正元年(1573年)の槇島城攻め、同年8月の越前朝倉攻め、天正2年(1574年)7月の伊勢長島一向一揆の殲滅戦、同年4月の石山本願寺攻めなどの諸戦に信長直属の部隊として参加。天正3年(1575年)に信長が子・織田信忠に家督を譲り、美濃衆のほとんどが信忠の下に付けられた後も、信長直属の立場であった。 天正5年(1577年)8月には柴田勝家の援軍として加賀に出陣、天正6年(1578年)5月には、羽柴秀吉の中国攻めの援軍として播磨国神吉城攻めへ出陣、同年11月には信長に謀反した荒木村重の有岡城包囲戦にも参加と、各地を転戦し続けている。
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織田氏家臣
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永禄12年(1571年)、盛数の配下だった畑佐六右衛門が飛騨の三木自綱と結び、気良の佐藤氏とも連合して慶隆打倒を目論んだが、慶隆は大島村(現郡上市白鳥町)の安養寺に助力を依頼し、安養寺信徒の先陣によって畑佐側を降した。 元亀元年(1570年)5月25日、信長より岐阜参陣を命じられ、弟慶胤、従兄弟胤俊と共に織田軍配下として、横山城の南で浅井・朝倉軍との戦いに参加し、6月28日の姉川の戦いで奮戦。信長より感状を受け、このころ東美濃の諸士を統率する権限を与えられていた森可成に属したと見られ、同年8月12日、可成より所領を安堵されている。しかし、同年9月に可成が坂本で討死すると、代わって坂井政尚に属し、胤俊と堅田を守備するが、11月26日に政尚も浅井・朝倉軍に攻められ討死(志賀の陣)。胤俊も戦死して、慶隆は兵100余人(一説には500余人)を失い、わずか一人の兵と共に一旦京都の大徳寺まで逃れた。やがて八幡城からの迎えの兵約50人に警護されて志賀に入り、信長と会見を果たすと、浅井・朝倉側との和議が成立した後、八幡城に帰還した。翌年、信長は比叡山焼き討ちを決行し、慶隆と胤基(胤俊の弟)の軍もこれに従軍した。 遠藤氏は信長に仕える一方で石山本願寺や武田信玄とも通じていた。郡上郡には安養寺と郡上門徒がいたが、遠藤氏としては郡上の統治には彼らの協力を必要とし、本願寺側は石山戦争に際して一向一揆を組織して美濃の織田軍を牽制するためには信長に仕える地元領主の遠藤氏の離反に期待し、また武田氏側は越前国の朝倉義景との同盟を安定させるために信濃ー郡上ー越前のルートを確保しようとしていた。そのような状況下で、慶隆も元亀3年(1572年)秋には家老遠藤新左衛門を甲斐国に派遣して、信玄の西上を期待する意を示した。信玄も遠藤氏同族東氏の家老、遠藤加賀守を通じて、遠藤両氏(慶隆・胤基)に反信長の旗幟を鮮明にするよう迫り、また浅井・朝倉氏からも加賀守へ款が通じられていた。同年11月、西上を開始した信玄の別働隊が東濃に入り、本隊は二俣城を破って徳川家康のいる浜松城へ向け進軍したため、信長・信玄のいずれにつくか遠藤氏が苦慮する中、家康は信長からの援軍を得ながら三方ヶ原の戦いで大敗した。また、同じ頃、本願寺が朝倉氏や郡上・大野・長島の門徒の協力を受けて、一色義紀と称していた斎藤龍興を美濃に帰還させる計画を進めており、その計画実現のために両遠藤氏の説得を行っている。元亀3年冬に作戦は実際に行われたものの、朝倉氏の協力を十分に得られずに北濃に進出した龍興は程なく撤退している(ただし、両遠藤氏が実際に計画に関与していたかは不明である)。 天正元年(1573年)4月に西上途中の信玄が死去すると、今度は信長に信義を疑われて攻められたので、慶隆は粥川甚右衛門と餌取六右衛門を連れ、立花山(現美濃市)へ出向いて降伏したという。しかし、両遠藤氏が全く処罰されていないことから、信長には奇跡的な幸運で別心が悟られていなかったのではないかという見方もある(ただし、天正元年5月に岐阜城にいた遠藤氏の人質が成敗されたとする話も伝わっている)。翌天正2年(1574年)、加治田城主斎藤利治が益田郡の田口氏の誘導で郡上に進入したが、遠藤胤基の家臣吉田左京進らの軍により撃退された。田口氏は同年7月に蟹沢氏と共に沓部村(現下呂市金山町東沓部)の船野山に立て籠もったが、慶隆の派遣した軍により7月14日に攻め滅ぼされ、慶隆は功のあった粥川甚右衛門に沓部を与えた。 天正3年(1575年)5月、武田勝頼が長篠城を攻囲すると、慶隆は弟慶胤の兵を派遣し、慶胤は佐久間信盛の配下に入って、鳶ヶ巣で戦功を挙げた(長篠の戦い)。同年8月、信長は越前一向一揆討伐のため敦賀に至り、慶隆・慶胤は日根野弘就と郡上から越前へ進軍して、金森長近と合流し、穴馬城・大野城を攻め落とした。なお、『信長公記』には金森軍が越前に入る前に郡上で戦ったことを記しており、本願寺や越前一向一揆に味方をする郡上門徒を先に攻撃するとともに、安養寺を庇護してきた遠藤氏にも決別を迫ったとみられている。天正4年(1576年)、織田信忠が美濃国主となると、慶隆は信忠に属した。同年の三瀬の変では、慶隆の名代として慶胤を従軍させた。翌年、来栖郷で別府弾正が反乱すると、慶胤の兵によって北国へ駆逐し、郡上の別府氏を滅亡させた。天正10年(1582年)2月、信長が武田勝頼を攻めると、慶隆・胤基は金森長近に属し、飛騨から甲斐に攻め込んで、天目山で勝頼を滅ぼした(甲州征伐)。 同年、本能寺の変で信長・信忠が明智光秀に討たれ、山崎の戦いで光秀が羽柴秀吉に破れると、美濃の諸士は秀吉になびいたが、遠藤氏は信孝に従い続けた。慶隆は信孝から命に服さない武儀郡板取城主の長屋氏討伐を命じられ、11月にこれを降伏させた。また、弟慶胤は信孝が山県郡太郎丸城で深尾和泉守を攻めるのに従軍して負傷し、11月11日付けの書で信孝よりねぎらわれている。 天正11年(1583年)1月、武儀郡内の諸士が秀吉に味方し、須原(現美濃市)・洞戸(現関市)に布陣して郡上と岐阜の連絡を遮断すると、遠藤軍は300余騎(『篠脇城主東家譜記』では2,000人)でこれを攻め落とし、立花山(現美濃市)に進軍して固守するが、森長可、佐藤秀方の連携攻撃を受けて逆に窮地に立たされた。補給路を断たれた立花山では熊皮を炙って食べるなど危機的な状況であり、一時は餓死より戦死を選び城より打って出て玉砕する事も考える程であったという。しかし、賤ヶ岳の戦いで勝家が敗死し、岐阜城包囲で信孝も降伏したという報せを、佐藤秀方の遣わせた使者から聞かされると、降伏を決意。人質を差し出して秀吉に服従した(立花山の戦い)。
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