織田氏家臣とは? わかりやすく解説

織田氏家臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/27 07:07 UTC 版)

安藤守就」の記事における「織田氏家臣」の解説

永禄7年1564年2月7日、守就は立政寺禁制与えている。この禁制で「伊賀無用」と称していることから、守就自ら、斎藤家に対して無用の家臣となったことを公に示したのである。あるいは若年斎藤龍興では、己と一族子孫生涯任せられる主たりえない、といった意味も含まれているのかも知れないとされている。 永禄10年1567年)、信長美濃侵攻に対して他の三人衆と共に内応し、そのまま信長の家臣として仕えたその後永禄11年1568年の上洛戦、元亀元年1570年)の姉川の戦いなどにも参加している。元亀2年1571年)の伊勢長島攻めでは三人衆氏家直元が殿を務めて戦死しているが、守就もこの戦闘参加しており負傷している。 永禄11年1568年11月16日付で、守就が曲直瀬道三発給した書状によると、上洛した際に道三と面識有し、道三の世話になったようである。帰国後も名残惜しく以後一層の交流望んでいる様子窺える(『曲直瀬文書』)。このような道三との緊密な交友を図る守就の意中には、道三の卓越した政治見識学び中央の政局信長内情探ろうとする目的があったのではないかとされている。 以後も、天正元年1573年)の槇島城攻め同年8月越前朝倉攻め天正2年1574年7月伊勢長島一向一揆殲滅戦同年4月石山本願寺攻めなどの諸戦に信長直属部隊として参加天正3年1575年)に信長が子・織田信忠家督譲り美濃衆のほとんどが信忠の下に付けられた後も、信長直属立場であった天正5年1577年8月には柴田勝家援軍として加賀出陣天正6年1578年5月には、羽柴秀吉中国攻め援軍として播磨国神吉城攻め出陣同年11月には信長謀反した荒木村重有岡城包囲戦にも参加と、各地転戦し続けている。

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織田氏家臣

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/06/18 03:38 UTC 版)

遠藤慶隆」の記事における「織田氏家臣」の解説

永禄12年1571年)、盛数の配下だった畑佐六右衛門飛騨三木自綱と結び、気良の佐藤氏とも連合して慶隆打倒目論んだが、慶隆は大島村(現郡上市白鳥町)の安養寺助力依頼し安養寺信徒先陣によって畑佐側を降した元亀元年1570年5月25日信長より岐阜参陣を命じられ、弟慶胤、従兄弟胤俊と共に織田軍配下として、横山城の南で浅井・朝倉軍との戦い参加し6月28日姉川の戦い奮戦信長より感状を受け、このころ東美濃諸士統率する権限与えられていた森可成属した見られ同年8月12日可成より所領安堵されている。しかし、同年9月可成坂本討死すると、代わって坂井政尚属し、胤俊と堅田守備するが、11月26日に政尚も浅井・朝倉軍攻められ討死志賀の陣)。胤俊も戦死して、慶隆は兵100余人一説には500余人)を失い、わずか一人の兵と共に一旦京都大徳寺まで逃れた。やがて八幡城からの迎えの兵約50人に警護されて志賀入り信長会見を果たすと、浅井朝倉側との和議成立した後、八幡城帰還した翌年信長比叡山焼き討ち決行し、慶隆と胤基(胤俊の弟)の軍もこれに従軍した遠藤氏信長仕え一方で石山本願寺武田信玄とも通じていた。郡上郡には安養寺郡上門徒がいたが、遠藤氏としては郡上統治には彼らの協力を必要とし、本願寺側は石山戦争に際して一向一揆組織して美濃織田軍を牽制するためには信長仕え地元領主遠藤氏離反期待し、また武田氏側は越前国朝倉義景との同盟安定させるために信濃郡上越前ルート確保しようとしていた。そのような状況下で、慶隆も元亀3年1572年秋に家老遠藤新左衛門甲斐国派遣して信玄西上期待する意を示した信玄遠藤氏同族東氏家老遠藤加賀守通じて遠藤両氏(慶隆・胤基)に反信長旗幟鮮明にするよう迫り、また浅井朝倉氏からも加賀守へ款が通じられていた。同年11月西上開始した信玄別働隊東濃入り本隊二俣城破って徳川家康のいる浜松城へ向け進軍したため、信長信玄のいずれにつくか遠藤氏苦慮する中、家康信長からの援軍を得ながら三方ヶ原の戦い大敗したまた、同じ頃、本願寺朝倉氏郡上大野長島門徒協力受けて一色義紀と称していた斎藤龍興美濃帰還させる計画進めており、その計画実現のために両遠藤氏説得行っている。元亀3年冬に作戦実際に行われたものの、朝倉氏協力十分に得られずに北濃進出した龍興程なく撤退している(ただし、両遠藤氏実際に計画関与していたかは不明である)。 天正元年1573年4月西上途中信玄死去すると、今度信長信義疑われ攻められたので、慶隆は粥川甚右衛門餌取六右衛門連れ立花山(現美濃市)へ出向いて降伏したという。しかし、両遠藤氏が全く処罰されていないことから、信長には奇跡的な幸運別心悟られていなかったのではないかという見方もある(ただし、天正元年5月岐阜城にいた遠藤氏人質成敗されたとする話も伝わっている)。翌天正2年1574年)、加治田城斎藤利治益田郡田口氏誘導郡上進入したが、遠藤胤基家臣吉田左京進らの軍により撃退された。田口氏同年7月蟹沢と共に沓部現下呂市金山町東沓部)の船野山立て籠もったが、慶隆の派遣した軍により7月14日攻め滅ぼされ、慶隆は功のあった粥川甚右衛門に沓部を与えた天正3年1575年5月武田勝頼長篠城攻囲すると、慶隆は弟慶胤の兵を派遣し、慶胤は佐久間信盛配下入ってヶ巣で戦功挙げた長篠の戦い)。同年8月信長越前一向一揆討伐のため敦賀至り、慶隆・慶胤は日根野弘就郡上から越前進軍して、金森長近合流し穴馬城・大野城攻め落とした。なお、『信長公記』には金森軍が越前に入る前に郡上戦ったことを記しており、本願寺越前一向一揆味方をする郡上門徒先に攻撃するとともに安養寺庇護してきた遠藤氏にも決別迫ったとみられている。天正4年1576年)、織田信忠美濃国となると、慶隆は信忠属した同年三瀬の変では、慶隆の名代として慶胤を従軍させた。翌年来栖郷で別府弾正反乱すると、慶胤の兵によって北国駆逐し郡上別府氏を滅亡させた。天正10年1582年2月信長武田勝頼攻めると、慶隆・胤基は金森長近属し飛騨から甲斐攻め込んで天目山で勝頼を滅ぼした甲州征伐)。 同年本能寺の変信長信忠明智光秀討たれ山崎の戦い光秀羽柴秀吉破れると、美濃諸士秀吉なびいたが、遠藤氏は信孝に従い続けた。慶隆は信孝から命に服さない武儀郡板取城主長屋討伐命じられ11月にこれを降伏させた。また、弟慶胤は信孝が山県郡太郎丸城で深尾和泉守攻めるのに従軍して負傷し11月11日付けの書で信孝よりねぎらわれている。 天正11年1583年1月武儀郡内の諸士秀吉味方し須原(現美濃市)・洞戸(現関市)に布陣して郡上岐阜連絡遮断すると、遠藤軍は300余騎(『篠脇城東家譜記』では2,000人)でこれを攻め落とし立花山(現美濃市)に進軍し固守するが、森長可佐藤秀方連携攻撃受けて逆に窮地に立たされた。補給路を断たれ立花山では熊皮炙って食べるなど危機的な状況であり、一時餓死より戦死選び城より打って出玉砕する事も考える程であったという。しかし、賤ヶ岳の戦い勝家敗死し、岐阜城包囲で信孝も降伏したという報せを、佐藤秀方遣わせ使者から聞かされると、降伏決意人質差し出して秀吉服従した立花山の戦い)。

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