成瀬正泰とは? わかりやすく解説

成瀬正泰

読み方なるせ まさもと

江戸後期尾州犬山城主。正幸の子太政大臣藤原良基祖先とする。高祖正成隼人正と称し大雅を号とする伊島牧斎に画を学びの絵を能くする天明5年(1785)歿、77才。

成瀬正泰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/02/15 16:21 UTC 版)

成瀬正泰像(白林寺蔵)

成瀬 正泰(なるせ まさもと、宝永6年6月26日1709年8月1日)- 天明5年6月20日1785年7月25日))は、尾張藩附家老尾張犬山藩の第5代当主。

第4代当主・成瀬正幸の長男。子に成瀬正純(長男)、成瀬正典(次男)、娘(四条隆叙室)など。官位は従五位下、隼人正。附家老をしていたときは正太と名乗っていた。尾張藩9代藩主徳川宗睦の嫡男・五郎太が誕生した際に、「太」の字を避けて正泰とする。

宝永6年(1709年)6月26日生まれとも、同年6月29日生まれとも言われている。享保17年(1732年)8月15日、父の隠居により跡を継ぐ。同年12月に従五位下・隼人正に叙任。藩主徳川宗春によく仕え、元文3年(1738年)の尾張藩の混乱期には、もう一人の附家老竹腰正武と対立した。宗春が隠居謹慎の際も、幕府と一戦交じうべしという強硬論を唱えたとも言われる。元文4年(1739年)に宗春が隠居謹慎した後に犬山へ戻り、犬山城に白帝城の別名を与える。

成瀬正泰の墓(名古屋市平和公園)

明和5年(1768年)1月28日、次男の正典に家督を譲って隠居し、蔵人を名乗り大雅と号する。天明5年(1785年)6月20日に77歳で死去した。法号は諦幻院殿泰翁宗峻大禅定門。墓所は愛知県名古屋市中区栄の白林寺(のちに平和公園に改葬)。

人物

  • 伊嶋牧斎に学び、絵の才能があった[1]

系譜

父母

子女

  • 成瀬正純(長男)
  • 成瀬正典(次男)
  • 四条隆叙室

脚注

  1. ^ 小山譽城『徳川御三家付家老の研究』(清文堂出版、2006年) ISBN 4-7924-0617-X



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