式亭三馬 式亭三馬の概要

式亭三馬

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/01/01 09:22 UTC 版)

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生涯

浅草田原町(現・東京都台東区雷門一丁目)の家主で版木師、菊地茂兵衛の長男に生まれた。茂兵衛は、八丈島の為朝大明神の神官菊地壱岐守の妾の子供で、晴雲堂と号して板木師を生業とし、後に三馬の版木を彫った[2]。幼少の頃から読書を好いたと、成人後に回想している。

天明4年(1784年)9歳から寛政4年(1792年)16歳まで、本石町(現・中央区日本橋本石町)の地本問屋翫月堂掘野屋仁兵衛方に住み込み、出版界の事情を知った。父が版木師で奉公先が版元。戯作者へと歩み、寛政6年(1794年)18歳のとき、黄表紙『天道浮世出星操』『人間一心覗替繰』等を、親友の春松軒西宮新六から初出版した。平賀源内芝全交山東京伝を慕った。

寛政9年(1797年)頃、本屋の蘭香堂万屋太治右衛門の婿養子となり、作家と出版屋を兼業した。寛政11年に出した『侠太平記向鉢巻』は火消人足の喧嘩に取材した作品だったが、版元と三馬の家を火消人足が襲う事件が発生して処罰を受ける。このため、新刊を出せなかったものの、三馬の名声は広まった。その後は、滑稽本『麻疹戯言』、歌舞伎案内書『戯場訓蒙図彙』などを刊行し、作品の幅を広げる。妻が亡くなったため、文化3年(1806年)万屋を去って古本屋を開業しながら、戯作に励んだ。この年刊行した『雷太郎強悪物語』は、三馬自身が「合巻の権興」と述べる通り、合巻の流行をもたらした[2]。この頃、故掘野屋仁兵衛の娘を後妻に迎えた。

文化6年(1809年)の『浮世風呂』が大流行し、文化9年(1812年)一子虎之助(式亭小三馬)を得た一方で、古本屋を畳んで文化7年(1810年)(34歳)から売薬の販売製造を始めた。著書で薬を宣伝し、薬の客が読者にもなるという好循環が生まれ「江戸の水」は大いに売れた[3]

文政5年(1822年)に没した。歓誉喜楽奏天信士。深川の雲光院寺中の長源寺(現・江東区三好二丁目)に葬ったが、関東大震災後の大正15年(1926年)、墓は碑文谷(現・東京都目黒区碑文谷一丁目)の正泉寺に改葬され、現存する。

作風

著作には古典の翻案や既存作品の模倣や剽窃が混ざるが多作だった。黄表紙から書き始め、洒落本、合巻、滑稽本、読本と色々な形式の本を書き、主題も郭咄、仇討ち、武勇伝、歌舞伎もの、狂歌と広範囲だったが、中でも江戸庶民の日常を描いた滑稽本類が評価されている。短気ながら親分肌の人柄で、為永春水、楽亭馬笑、古今亭三鳥、益亭三友らを門弟にした[2]。なお、1806年の『雷太郎強悪物語』が合巻の始まりとは、三馬の自己宣伝で、先発があったと言う[4]

また、三馬は戯作の執筆をする傍ら、自ら肉筆浮世絵も描いている。代表作として「三味線を持つ芸妓図」が挙げられる。本図は、立てた三味線を持つ大島田の芸妓が、片膝を立てて振向いている様子を描いており、自画賛を入れている。


  1. ^ 棚橋正博:『式亭三馬』新装版、ぺりかん社(2007)p.2
  2. ^ a b c 岡本勝雲英末雄 『新版近世文学研究事典』 おうふう、2006年2月、150頁。 
  3. ^ 粋と洒落!江戸の広告作法「えどばたいじんぐ」 ⑦ | ミュージアム通信 | アドミュージアム東京”. www.admt.jp. 2020年4月22日閲覧。
  4. ^ 鈴木敏夫:『江戸の本屋(上)』、中公新書(1980)p.163 ほか


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