SPDとKPDの合併とは? わかりやすく解説

SPDとKPDの合併

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/10 22:28 UTC 版)

ドイツ社会主義統一党」の記事における「SPDとKPDの合併」の解説

第二次世界大戦後ソ連占領地区ではナチス・ドイツによって解散させられ政党組織再建進められた。この時、生き残ったSPDKPD党員たちは自発的に共同組織の結成進めていた。彼らには、左派勢力SPDKPD分裂したためにナチスの台頭阻止できなかった、という歴史的反省あったからである。しかし、ソ連から送り込まれていたKPD党員による工作グループ隊長ヴァルター・ウルブリヒトはこれらの社共統一組織解体しSPDソ連占領地区幹部オットー・グローテヴォールらから出され統一組織結成案も拒否したクレムリンからは、まずKPD組織固め優先せよという指示があったためである。 1945年6月10日、ジューコフ・ドイツ駐留ソ連軍最高司令官によって政党結成許可英米仏の占領地区よりも早く出されSPDKPDキリスト教民主同盟(CDU)、自由民主党(LDPD)などの諸政党が正式に結成された。再結成当時KPDは全ドイツ影響与えるため、ソ連指示によって社会主義的要素を表に出さないようにしており、結党宣言では「社会主義」という言葉使わず私企業育成進めると表明するなど、一見するとヴァイマル共和政復活意図しているかのようであり、むしろSPDの方が社共統一謳い社会主義的左翼的な印象与え再結成宣言出していた。ウルブリヒトドイツ再建基本策は「表面民主的に見せかけなければならないが、共産党すべての指導手に入れなければならない」というものだったソ連占領地区SPD幹部ソ連占領軍ドイツ民主化進めるうえで最大党員数を持つSPDを必要とするであろう考えて社共統一掲げたが、彼らの見通しは全く甘いものであったソ連占領地区でデモンタージュドイツ語版)を行い工場設備鉄道線路など賠償名目接収したが、こうしたソ連政策隣国オーストリアでオーストリア共産党支持していた。そのためか、オーストリアで共産党1945年11月下院総選挙ドイツ語版)で4議席しか獲得できなかった(オーストリア社会党76議席獲得し第2党)。ソ連当局オーストリアでも社共は互角であると予測していたため、大きな衝撃受けたこれを機にドイツでもソ連当局KPD戦術一変しSPDKPD合同打ち出すようになったこの頃にはソ連後押し受けたKPD党員増加して1945年末にはSPDとほぼ互角37万人となっていた。一方当初社共合同打ち出していたSPD守勢回っていた。当初SPD幹部達の思惑違ってソ連占領政策KPDを主に据えSPDあくまでも脇役にしか過ぎないことが明らかになってきており、印刷物集会などの党活動でもSPD不平等な扱い受けていた。指導部不平等合併恐れるようになっていたが、幹部達は当初掲げた労働者階級政党統一というスローガン撤回することが出来なかった。 さらにSPD内部でもクルト・シューマッハー率い英米占領地区のSPDKPDとの合同には反対であり、頑として応じなかった。SPDは、東のグローテヴォールと西のシューマッハー主導権争いによって分裂状態になっていた。 1945年12月中旬ベルリンではソ連占領地区SPDKPDの代表30人ずつから成る60会議」が開催され合同への路線敷かれた。翌46年2月にはKPD側からソ連体制モデルとしないドイツにおける社会主義の道」が提案された。これにはSPD党員からも支持を受ける一方ソ連占領地区合同反対する一部SPD党員ヤミ商売横領容疑ソ連軍司令部連行され中にはスパイ容疑ソ連送られた者もあった。また、メクレンブルクでは地区ソ連軍司令部SPDKPD地区指導者呼ばれ乾杯して握手しただけでソ連軍司令官が「これで、わが地区の社共合同実現がしたと報告できると言うなどして既成事実積み上げていき、合併躊躇するSPDに対してソ連当局圧力強めて行った1946年4月19日20日ソ連占領地区SPDKPDそれぞれ党大会開いて合同決議し、21-22日に合同党大会開催され党員60万人KPD68万人SPD統合ドイツ語版)し、ドイツ社会主義統一党誕生した結党当初は「レーニン主義は採らない」「すべての機関SPDKPD同数で出す」という原則出され党首も旧SPDグローテヴォールと旧KPDヴィルヘルム・ピーク共同議長制が導入されるなど、一見対等合併装いがされたが、それはほんの一時期に過ぎなかった。 詳細は「ドイツ社会民主党ドイツ共産党統合によるドイツ社会主義統一党結党ドイツ語版)」を参照 @media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .mod-gallery{width:100%!important}}.mw-parser-output .mod-gallery{display:table}.mw-parser-output .mod-gallery-default{background:transparent;margin-top:.3em}.mw-parser-output .mod-gallery-center{margin-left:auto;margin-right:auto}.mw-parser-output .mod-gallery-left{float:left;margin-right:1em}.mw-parser-output .mod-gallery-right{float:right}.mw-parser-output .mod-gallery-none{float:none}.mw-parser-output .mod-gallery-collapsible{width:100%}.mw-parser-output .mod-gallery .title,.mw-parser-output .mod-gallery .main,.mw-parser-output .mod-gallery .footer{display:table-row}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div{display:table-cell;text-align:center;font-weight:bold}.mw-parser-output .mod-gallery .main>div{display:table-cell}.mw-parser-output .mod-gallery .gallery{line-height:1.35em}.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div{display:table-cell;text-align:right;font-size:80%;line-height:1em}.mw-parser-output .mod-gallery .title>div *,.mw-parser-output .mod-gallery .footer>div *{overflow:visible}.mw-parser-output .mod-gallery .gallerybox img{background:none!important}.mw-parser-output .mod-gallery .bordered-images .thumb img{outline:solid #eaecf0 1px;border:none}.mw-parser-output .mod-gallery .whitebg .thumb{background:#fff!important} SED結党大会で握手するヴィルヘルム・ピークKPD)とオットー・グローテヴォールSPD)。最前列右はヴァルター・ウルブリヒト。この握手党章モチーフになっている 1950年の党ポスター。下に「SED あなたの政党!」と書かれている1959年まで党本部置かれた旧ヨナス百貨店ドイツ語版)(1951年) ベルリンSPDシューマッハーの意を汲んだフランツ・ノイマンらが、KPDとの統合ベルリンの全党員投票決めるべきだとして、1947年3月31日党員集会賛否決め投票が行われた。しかし、東ベルリンの党支部員達はソ連軍党員集会への参加禁止されたため、実際投票出来たのは西ベルリンSPD党員のみであったその結果KPDとの即時統一賛成したのはわずか12.3パーセントであったため、ベルリン東ベルリン含めてSED成立後も、一定期間SPD存続した(西ベルリンSPD東ベルリンでも当面活動許されていた。一方西ベルリンKPDは「西ベルリン社会主義統一党ドイツ語版)」と改称しドイツ統一まで活動続けた)。なお、西側占領地区ではKPD1956年連邦憲法裁判所より違憲判決下され解散しているが、SPDそのまま存続して現在に至っている。 労働者政党2党が合併して誕生したSEDだが、国民人気はさほど高くなかった1946年10月ソ連占領地区およびベルリン州議会選挙ドイツ語版)・地方選挙が行われたが大ベルリン東西地区)の市議会選挙ドイツ語版)ではSPD第一党となり、SED第三党にとどまるという敗北第二党CDU)を喫し他の州議会でもSEDソ連軍後押し第一党はなったもののCDULDPDとはほぼ互角勢力しか確保できなかった。これ以降ソ連占領地区では自由選挙行われなくなった

※この「SPDとKPDの合併」の解説は、「ドイツ社会主義統一党」の解説の一部です。
「SPDとKPDの合併」を含む「ドイツ社会主義統一党」の記事については、「ドイツ社会主義統一党」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「SPDとKPDの合併」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「SPDとKPDの合併」の関連用語

SPDとKPDの合併のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



SPDとKPDの合併のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaのドイツ社会主義統一党 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。

©2025 GRAS Group, Inc.RSS