SPD党首就任と突然の辞任
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「マティアス・プラツェック」の記事における「SPD党首就任と突然の辞任」の解説
連邦議会選挙直後の2005年10月、SPD のフランツ・ミュンテフェーリング党首が次期党首選出馬を辞退。この緊急事態にプラツェックは出馬を表明し、11月の党大会で得票率99.4%で党首に選出された。この得票率は戦後の初代党首クルト・シューマッハーに次ぐものである。ところが党首就任直後の2005年末から突発性難聴の症状が出始め、3月29日に再発して聴力が大幅に悪化。健康の悪化と治療を理由に4月10日に党首辞任を発表し、副党首のクルト・ベックが後任の党首となった。ブランデンブルク州首相の職は続けており、2009年に予定されている次期連邦議会選挙での連邦首相候補への意欲をにおわせる発言をして、ベック党首との関係が悪くなったこともある。現在の SPD 内で最も人気・知名度の高い政治家の一人ではあるが、健康不安がネックとなっている。 2007年より地方首長代表として第2ドイツテレビ (ZDF) の経営委員会に参加。2009年9月のブランデンブルク州議会選挙では、左翼党との連立で政権維持に成功した。シュタージへの協力疑惑がある左翼党政治家との協力には批判があり、またそのことについてプラツェックが「デア・シュピーゲル」に寄せたエッセイの中で、かつて SPD のクルト・シューマッハー党首が武装SSの元隊員と妥協したことと比較したため、批判の声が上がった。同じインタビューの中で、東西ドイツ再統一をナチス・ドイツによる1938年のオーストリア併合「アンシュルス」になぞらえたことも批判された。2011年、ドイツ連邦共和国功労勲章大功労十字星大綬章を受章。 2013年6月17日、発作のため入院したが10日後に復帰。7月29日に健康上の理由から全ての公職を辞することを発表し、8月28日に退任した。後任には州内相を務めていたディートマー・ヴォイトケを指名した。
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