SPD党首就任と転落
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「ルドルフ・シャーピング」の記事における「SPD党首就任と転落」の解説
ラインラント=プファルツ州ニーダーエルベルト生まれ。ギムナジウムを卒業後、2年間兵役に服すはずだったが、弱視のため半年で除隊。1966年にドイツ社会民主党(SPD)に入党する。ボン大学に入学し政治学、法学、社会学を学ぶ。1968年、ドイツ連邦軍のスターファイター戦闘機導入に反対するビラを配ったため除名を審査する党規委員会にかけられるが、10ヶ月後に審査停止。1969年から74年まで、SPDの下部組織・社会主義青年団(Jusos)のラインラント・プファルツ州代表。1974年、大学を卒業し修士号取得。修士論文のテーマはSPDの連邦議会選挙の地元での選挙戦を分析したものだった。この年最初の結婚をして、三女をもうける。1974年‐1976年、Jusos連邦副代表。1975年、ラインラント・プファルツ州議会選挙で初当選、以後4期19年にわたって務める。1976年から2年間、Jusosの連邦副代表。1984年‐90年、ラインラント・ヘッセン=ナッサウ地区のSPD代表。1985年‐91年、SPDの州議会院内総務。1985‐93年、SPDのラインラント・プファルツ州代表。 1991年に行われた州議会選挙に州首相候補として出馬、勝利をおさめて5月21日にラインラント・プファルツ州首相に選出され、戦後44年続いた同州でのドイツキリスト教民主同盟(CDU)による支配を初めて破った。その勢いを駆って1993年、エッセンで行われた党大会でSPD党首選挙に出馬する。その時の対抗馬は、ともにJusosの連邦代表経験があるニーダーザクセン州首相ゲアハルト・シュレーダーと、SPD連邦議会議員団広報官のハイデマリー・ヴィーチョレック=ツォイルだった。党首選で彼は翌年行われる連邦議会選挙で連邦首相候補になりたいとは明言しなかったため、ザールラント州首相オスカー・ラフォンテーヌを首相候補に推す党内左派の票も集め、SPD党首に選出された。 しかし一転シャーピングは翌1994年の連邦議会選挙に首相候補として出馬、議席は増えたものの政権交代はならなかった。この選挙で州議会から連邦議会議員に転じ、党院内総務に就任(1998年まで)。しかしドイツ連邦軍の海外派遣を容認する現実主義路線、そして経済政策のスポークスマンだったシュレーダーを遠ざけるなどの独断的姿勢が党内の反感を買った。翌1995年にマンハイムで行われた党大会では、出来レースが普通のドイツの党大会ではきわめて異例なことに、シャーピングとラフォンテーヌとで決選投票が行われ、現職党首でありながらシャーピングはあえなく落選した。敗れたシャーピングはSPD副党首におさまる。同年から2001年まで、ヨーロッパ各国の社会民主主義政党が加盟するヨーロッパ社会民主党(SPE)代表を務める。
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