SPD、州首相
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1958年、ラウはSPDの下部組織・社会主義青年団(ユーゾー)のヴッパータール地区代表に就任(1962年まで)。同年ノルトライン=ヴェストファーレン州州議会選挙に立候補し初当選。のちに大統領となる1999年までこの議席を保持した。1962年から党議員団に加わり、67年にはその代表に就任。同時に1964年から1978年までは故郷ヴッパータール市参事会に属し、1969年から70年には同市の市長を務めた。1968年、SPD連邦幹事に選出。1973年からSPDのノルトライン・ヴェストファーレン州の党幹事会に加入、77年から98年までは党の州代表を務めた。1978年にはSPD中央委員、1982年には副党首に就任。 1970年、ノルトライン・ヴェストファーレン州のハインツ・キューン内閣に科学研究相として初入閣。その在任中、同州には数多くの大学が新設された(ヴッパータール大学、ハーゲン通信大学など)。1972年に芸術家でデュッセルドルフ芸術アカデミー教授のヨーゼフ・ボイスが学園闘争を起こした際は話し合いをもったが折り合わず、これを馘首している。1978年、キューン州首相の引退を受け、その後継として州首相に就任した。州首相である彼の指導下で、SPDは1980年、1985年、1990年の州議会選挙で議席の過半数、絶対多数を獲得し、強固な地盤を守った。とりわけ1985年の選挙は得票率52.1%で、同州のSPDの歴史の中で最高記録である。 1982年10月からの一年間と1994年11月からの一年間、ラウは連邦参議院議長を兼任した。長期政権を維持したラウは、ヴィリー・ブラント、ハンス=ヨッヘン・フォーゲル、ビョルン・エングホルム、ルドルフ・シャーピング、オスカー・ラフォンテーヌ、ゲアハルト・シュレーダーと6代ものSPD党首の下で副党首を務めた。1987年の連邦議会選挙の際には連邦首相候補として現職のヘルムート・コールに挑んだが敗れた。エングホルムが辞任した1993年には臨時代理党首も務めている。1998年5月28日、ヴォルフガング・クレメントに跡を譲って20年に及ぶ州首相職を辞任した。州の党代表職はフランツ・ミュンテフェーリングが継いだ。彼の州首相在任20年間に同州は他州に比べて明らかに社会的・経済的・技術的に後れを取るようになったが、これはラウがSPDの支持基盤である労働組合などに配慮した結果、炭鉱など旧態依然とした産業構造を守りすぎたためであると保守政治家に批判された。しかしドイツ産業の構造変化はこの州内にとどまる問題ではなく、ラウの施策にその原因を帰すのは不当とする意見もある。
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