SPD左派
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/08 21:09 UTC 版)
「オスカー・ラフォンテーヌ」の記事における「SPD左派」の解説
彼はSPD党内でも左派としてその名を轟かせた。最初に注目されたのは1970年代後半の平和運動の盛り上がりにおいてだった。NATOの抑止力充実を進めていたのは他ならぬSPDのヘルムート・シュミット首相だったが、ラフォンテーヌは党内のハンス・エップラーや同じ若手のゲアハルト・シュレーダーらと共に西ドイツのNATOからの脱退などを要求し公然とシュミットを批判した。しかし党内の多数派はシュミットの政策を是としたため、ラフォンテーヌは悔し紛れにシュミットを「強制収容所も経営出来る」と批判して、のちに謝罪した。1983年の大規模なミサイル配備抗議の座り込みにも、作家のハインリヒ・ベルらと共に参加している。 1987年、SPDのヴィリー・ブラント党首(元首相)が引退する際、世代交代を印象付けるためにラフォンテーヌを後継党首に提案したが、ラフォンテーヌは辞退した。後継党首に選出されたのはハンス=ヨッヘン・フォーゲルだったが、ラフォンテーヌはヨハネス・ラウと共に副党首となり、新たな党綱領の作成委員会委員長として、1989年の党大会で国際協調による軍縮・男女の雇用機会均等、経済の環境保護努力、社会保障の構造改革などを柱とする新たな綱領を発表した。一方で産業界との妥協なしでの労働時間短縮には慎重な姿勢を示し、労働組合との関係が悪化した。
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