党首辞任
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「アーサー・バルフォア」の記事における「党首辞任」の解説
この結果に党内から不満が噴出し、党の分裂は深刻化した。議会法の貴族院可決があった8月10日夜の保守党社交界カールトン・クラブ(英語版)の席上では賛成票を投じた貴族院議員たちに「恥を知れ」「裏切り者」「ユダ」といった罵倒が浴びせられた。バルフォアの指導力にも疑問が呈されるようになり、F.E.スミス(英語版)やオースティン・チェンバレンを中心に「B・M・G(バルフォアよ、去れ)」運動が開始された。 こうした党内の亀裂を収拾するため、1911年11月8日にバルフォアは健康上の理由として保守党党首職を辞した。後任の保守党党首は決まっておらず、ウォルター・ロング(英語版)とオースティン・チェンバレンが後任の座をめぐって争ったが、結局この2人は党の分裂を恐れて共に辞退し、関税改革派・親アルスター派の論客として名を馳せていたアンドルー・ボナー・ローが後任の党首に収まった。 バルフォアの党首辞任を聞いたアスキス首相は「世界で最も偉大な審議機関の最も卓越した一員だった」という賛辞をバルフォアに送った。
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