党首就任と敗北
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「ライナー・バルツェル」の記事における「党首就任と敗北」の解説
1971年の党大会で対抗馬のラインラント=プファルツ州首相ヘルムート・コールを破り、党首および首相候補に選出された。ブラントの東方政策などに反対してSPDやFDPからCDUに寝返る議員が跡を絶たなかったため、勝利を確信したバルツェルは1972年4月27日ブラント内閣不信任案を上程した。しかし、内閣不信任案の採決に先立ち行われた建設的不信任案におけるバルツェル自身の支持の票決は、議員総数496票中、過半数の249票を下回ること2票、247票に終わった。これは、SPDの実力者ヘルベルト・ヴェーナーによってCDU議員が切り崩されたためで、バルツェルが提出した内閣不信任案は葬り去られた。 ブラント内閣の打倒に失敗したバルツェルには、党の内外から批判が巻き起こった。CDU党首に就任して最初の政治的イニシアティブが、SPD、FDP議員の数名に繰り広げられた買収工作という陋劣な手段を用いたということ、しかも失敗に終わったことに加え、バルツェルは後任がいないという理由で党首に居座ろうとしたことから、政治指導者としての資質が問われることとなった。CDU議員団の中からも、バルツェルの権力亡者ぶりを批判する声が次第に大きくなり、党内には副党首であったヘルムート・コール待望論が出てくるようになっていった。1972年12月13日ブラント首相は、連邦議会の繰上げ総選挙を実施し、SPDは第一党となった。一方、CDUは西ドイツ成立以来の第一党の地位を失い、敗北の責任を取って、バルツェルは党首を辞任した。コールが後継党首となったが、バルツェルは党務から完全に外された。 連邦議会では1976年から1979年まで経済委員会委員長、1980年から1982年まで外交委員会委員長を務めた。1982年にシュミット内閣に対する建設的不信任決議が成立してヘルムート・コール政権が成立するとドイツ問題相として入閣。翌1983年の連邦議会選挙後に連邦議会議長に選出されたが、翌年スキャンダルに巻き込まれて辞任した(のちに無関係と判明)。1987年を最後に連邦議会を去り、政界から引退した。
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