党首就任と敗北とは? わかりやすく解説

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党首就任と敗北

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 14:14 UTC 版)

ライナー・バルツェル」の記事における「党首就任と敗北」の解説

1971年党大会対抗馬ラインラント=プファルツ州首相ヘルムート・コール破り党首および首相候補選出された。ブラント東方政策などに反対してSPDFDPからCDU寝返る議員が跡を絶たなかったため、勝利を確信したバルツェルは1972年4月27日ブラント内閣不信任案上程した。しかし、内閣不信任案採決先立ち行われた建設的不信任案におけるバルツェル自身支持票決は、議員総数496票中、過半数249票を下回ること2票、247票に終わった。これは、SPD実力者ヘルベルト・ヴェーナーによってCDU議員が切り崩されたためで、バルツェルが提出した内閣不信任案葬り去られた。 ブラント内閣打倒失敗したバルツェルには、党の内外から批判巻き起こったCDU党首就任して最初政治的イニシアティブが、SPDFDP議員数名繰り広げられ買収工作という陋劣な手段用いたということ、しかも失敗終わったことに加え、バルツェルは後任がいないという理由党首に居座ろうとしたことから、政治指導者としての資質問われることとなったCDU議員団の中からも、バルツェルの権力亡者ぶりを批判する声が次第大きくなり、党内には副党首であったヘルムート・コール待望論が出てくるようになっていった。1972年12月13日ブラント首相は、連邦議会繰上げ総選挙実施しSPD第一党となった一方CDU西ドイツ成立以来第一党地位失い敗北責任取って、バルツェルは党首辞任したコール後継党首となったが、バルツェルは党務から完全に外された。 連邦議会では1976年から1979年まで経済委員会委員長、1980年から1982年まで外交委員会委員長を務めた1982年シュミット内閣対す建設的不信任決議成立してヘルムート・コール政権成立するドイツ問題相として入閣。翌1983年連邦議会選挙後に連邦議会議長選出されたが、翌年スキャンダル巻き込まれ辞任した(のちに無関係判明)。1987年最後に連邦議会去り政界から引退した

※この「党首就任と敗北」の解説は、「ライナー・バルツェル」の解説の一部です。
「党首就任と敗北」を含む「ライナー・バルツェル」の記事については、「ライナー・バルツェル」の概要を参照ください。

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