党首就任と総選挙敗北
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/15 06:30 UTC 版)
「マイケル・フット」の記事における「党首就任と総選挙敗北」の解説
1979年の総選挙で、労働党がマーガレット・サッチャー率いる保守党に敗れて下野すると、キャラハンは党首辞任を表明。それに伴って党首選挙が行われることになった。フットはキャラハン政権時代、副党首として党内のまとめ役となり積極的にキャラハンに協力したものの、一方では従来の左派から反感を買っていた。また、キャラハンとわずか1歳違いという年齢(当時67歳)もあり、今回の党首選には意欲的ではなく、本人としては秘蔵っ子のピーター・ショア (Peter Shore) の応援に回りたかった様である。しかし、左派幹部からの説得を受け、遅ればせながら出馬を表明した。キャラハンを含む右派の幹部達はデニス・ヒーリーの党首就任を望んだが、その場合、トニー・ベン (Tony Benn) ら党内急進左派との亀裂がさらに深まる事態は避けがたく、フットも党首選においては、自分は党内に団結をもたらすのに最適な候補者である、と喧伝した。その結果、決選投票で右派のデニス・ヒーリーを破り、当選を果たして新党首に就任した。 しかし、新党首に就任後すぐに深刻な危機に直面することになる。1981年、党内の左傾化を嫌って、党内右派のロイ・ジェンキンス、シャーリー・ウィリアムズ、デイヴィッド・オーウェン、ウィリアム・ロジャーズら「4人組」が労働党を離党し、社会民主党を結成する。彼らはメディアの注目を浴び、世論調査では労働党を凌ぎ、政権交代を果たす可能性を感じさせるほどの支持率を獲得する。 一方で党内急進左派は勢いを増し、1981年にはトニー・ベンが副党首の座を争ってデニス・ヒーリーに挑戦。ヒーリーは副党首の座を守ったものの、投票では僅差に迫られてしまう。1982年から83年にかけては、労働党の議員がフットに辞任を迫るのではないか、との観測が流れ始めた。この観測は、1983年の予備選挙で労働党が敗北した後より強まったが、結局労働党はフット党首体制のまま1983年の総選挙に突入することになる。 1983年の総選挙に向けた労働党のマニフェストは、一方的核廃絶、高負担の税金、産業への積極的干渉、貴族院の廃止、銀行国有化、欧州経済共同体 (EEC) からの脱退など、より社会主義色が強いもので、党内右派のジェラルド・カウフマン (Gerald Kaufman) は、このマニフェストを「歴史上最も長い自殺の覚え書き」と表現した。事実このマニフェストは、中産階級の増加するイギリスにおいて時代錯誤とも言うべきものであり、一般有権者は労働党への不信を募らせ、労働党は総選挙で歴史的大敗北を喫してしまう。フットはこの責任を取って党首を辞任。新党首には、自身の側近でもあったニール・キノックが選ばれた。
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