JBC発足以降
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 14:27 UTC 版)
字下げのある行に記載した事故は、JBCが発表する過去の件数に含まれていないもの。アマチュア選手の他、JBCのボクサーライセンスを持たない国外のプロ選手や、プロテスト中の選手の事故、日本のプロ選手のスパーリング中の事故はカウントされていない。 1952年4月24日、寺田保(大星)が死亡。 1955年3月19日、名古屋市で10回戦に判定勝利した横井義春(松田)が、同月22日に死亡。 1958年2月4日、国本士成(東亜)が死亡。 1964年8月16日、東京で6RKO負けした長谷川稔(田辺)が、同月20日に死亡。 1966年8月18日、東京で8RKO負けした久保義実(新和)が死亡。1967年8月24日、全日本選手権でポイント負けしたアマチュア選手が、病院へ運ばれて手術を受けた後、脳内出血で死亡。 1969年11月6日、前年度西日本ミドル級新人王の二宮盛一(大星)が、スパーリング中のダメージにより脳の外傷で死亡。ラストファイトは1969年3月30日に行われた札幌での6回戦(判定負け)であった。 1970年3月5日、プロテストで顎への右フックでダウンを喫した17歳の選手が起き上がれず、脳内出血により開頭手術を受けたが、翌日に死亡。 1973年1月26日、グアムでフィリピン人選手フレッド・ザヤスとのスーパーフェザー級10回戦に8RKO負けした直後に倒れた親川昇(野口)が、翌日に死亡。日本関連選手が国外試合で死亡したのは初めてであった。 1973年8月22日、渡辺人志(大川)が死亡。 1977年1月3日、木村孝仁(高橋)が死亡。 1977年1月28日、ムサシ後藤(熊本)が死亡。 1977年7月19日、成田利彦(協栄河合)が死亡。 1977年8月20日、水野雅之(松田)が試合で意識を失い、1996年5月10日に死亡。 1977年8月26日、大幸勝則(山田)が死亡。 1978年5月2日、東京で4回戦に2RKO勝利した大和克也(本庄)が、翌月28日に死亡。 1978年10月13日、東京でライト級4回戦にKO負けした黒井俊明(ヨネクラ)が、翌年8月18日に死亡。 1979年10月7日、内海修一(セキ)が死亡。 1981年8月4日、東京でフライ級4回戦に1RKO負けした浦山純人(角海老)が、同月10日に死亡。 1982年10月19日、東京でスーパーバンタム級10回戦に9RKO負けした小林直樹(金子)が、同月21日に死亡。 1984年1月7日、秋田市でライトフライ級10回戦に6RKO負けした木村功(センタースポーツ)が、同月9日に死亡。 1986年5月9日、名古屋市でのプロデビュー戦で、フライ級4回戦の最終回に顔面への連打を受けてKO負けを喫した22歳の小林健二(角海老宝石)が、リング上で意識を失い、2日後に死亡。当時JBCの事務局長を務めていた小島茂によれば、前年度より脳の検診を実施するようになってから初の死亡事故であった。 1987年6月24日、東京でジュニアウェルター級4回戦で3回KO負けした21歳の小沢真尚(全日本パブリック)が、脳内出血で手術を受けたが、8月10日に肺炎を併発し、意識を回復することなく死亡が確認された。 1990年6月14日、札幌市でバンタム級10回戦に10RKO負けした米坂淳(北海道)が、試合後の控室で意識を失い、4日後に脳挫傷で死亡。対戦相手は後のWBC世界バンタム級王者薬師寺保栄であった。 1991年12月1日、名古屋市でジュニアフェザー級10回戦に10RKO負けした勝又ミノル(高村)が意識を失い、脳の外傷で緊急手術を受けたが、昏睡状態に陥り、翌日に死亡。1992年5月16日、高校生のアマチュア選手がトーナメントの試合後にコーナーで倒れ、脳の外傷で死亡。 1992年12月19日、大阪でライト級8回戦に7RKO負けした23歳の浜川泰治(アポロ)が意識を失い、翌月(1993年1月)7日に死亡。 1995年9月5日、東京での日本バンタム級タイトルマッチにて王者川益設男(ヨネクラ)に判定負けしたグレート金山(ワタナベ)が、同月9日に死亡。日本タイトルマッチ史上初のリング禍となった。金山は同年2月28日、王者として川益の挑戦を受け、10回判定負けで王座陥落。しかし、その判定結果が物議を醸し、JBCは川益に対し再戦を命じていた。その再戦で起こった事故である。 1995年12月12日、スーパーライト級でTKO負けして昏睡状態にあった26歳の伊藤光幸(秋田松本)が、脳内出血で死亡。 1996年4月3日、フェザー級8回戦に判定勝利した中島徹也(ハラダ)が昏睡状態に陥り、意識の戻らないまま5年後に死亡。(後述) 1996年7月21日、鈴木敦(上滝)が死亡。 1997年2月10日、東京でスーパーライト級8回戦に判定引分となった24歳の平沼浩幸(松戸平沼)が控え室で倒れ、昏睡状態にあったが、脳内出血のため、同月24日に死亡した。 1997年2月24日、東京でスーパーバンタム級8回戦に8RKO負けした都田俊宏(協栄)が、2005年10月に死亡。 1997年10月13日、東京で日本スーパーフライ級王座決定戦に7RKO負けした大雅アキラ(協栄)が、同月19日に死亡。 1998年10月12日、東京でスーパーバンタム級10回戦に9RKO負けした28歳の片桐賢(極東)が、開頭手術を受けたが昏睡状態に陥り、同月27日に死亡。2000年1月16日、17歳の高校生アマチュア選手が試合中に2度ダウンした後、猛攻撃を受けて意識を失って倒れ、病院に運ばれたが、脳の外傷により8日後に死亡。 2001年10月24日、福岡県久留米大学のアマチュア選手竹森大樹が、スパーリング中に急性硬膜下血腫となり翌月14日に死亡。 2002年3月24日、東京でのフライ級6回戦に判定負けした伊礼喜洋(八王子中屋)が、翌月9日に死亡。2002年12月9日、東京でバンタム級8回戦に6RKO負けしたタイ人選手ヨードシン・チュワタナが、帰国後試合4日後に昏睡状態になり、2日後にバンコクの病院で死亡した。 2004年1月22日、埼玉で16歳の高校生アマチュア選手が、スパーリング中に脳内出血で死亡した。 2004年3月15日、東京でのスーパーバンタム級10回戦に0-2で判定負けした24歳の能登斉尚(フラッシュ赤羽)が、翌日軽い頭痛を訴えて入院、安定していた容体が22日未明に急変し、硬膜下血腫で緊急手術を受けた後は意識不明のまま翌月2日に死亡した。試合後のコミッションドクターの検診では、異常は認められなかった。 2005年4月3日、大阪で日本スーパーフライ級王座の初防衛戦に10RKO負けした王者田中聖二(金沢)が、同月15日に死亡。挑戦者は後のWBA世界スーパーフライ級王者名城信男であった。 2008年5月3日、東京でスーパーライト級6回戦に6RTKO負けした張飛(明石)が、同月18日に死亡した。 2009年3月21日、東京で日本ミニマム級王座決定戦に10RKO負けした辻昌建(帝拳)が試合後に急性硬膜下血腫のため意識喪失、緊急開頭手術を受けたが、意識が戻らないまま同月24日に死亡した。勝者の金光佑治(六島)も試合終了後頭痛・吐き気の症状により救急搬送、さらに翌日のセカンドオピニオンで硬膜下血腫が発見されたため、この試合を最後に引退している。 2009年10月12日、福岡でスーパーバンタム級10回戦に10RTKO負けしたタイ人選手サーカイ・ジョッキージムが、試合終了とともに意識を失い、急性硬膜下血腫により3時間後に福津市の病院で死亡した。 2010年2月19日、東京でフライ級8回戦に8RTKO負けした八巻裕一(野口)が、急性硬膜下血腫により緊急手術を受けたが、同月22日に死亡と判明した。 2013年12月20日、東京でスーパーフライ級4回戦に4RTKO負けした21歳の岡田哲慎(ランド)が、急性硬膜下出血により緊急手術を受けたが、翌2014年1月6日に死亡した。岡田は空手など武道の経験はあったが、ボクシング経験は無くジム入門後7ヶ月の間に2度テストを受けプロテストに合格、この試合が岡田にとってデビュー戦であった。
※この「JBC発足以降」の解説は、「リング禍」の解説の一部です。
「JBC発足以降」を含む「リング禍」の記事については、「リング禍」の概要を参照ください。
- JBC発足以降のページへのリンク