2005 - 2014(J1)
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「大宮アルディージャ」の記事における「2005 - 2014(J1)」の解説
2005年 クラブスローガン「「Departure」→走り出す大宮→」。 三浦俊也体制2年目。元ブラジル代表FWクリスティアンや日本代表MF藤本主税などを補強したがシーズン中のクリスティアンの移籍や故障者続出によりチームは不調に陥り、第28節時点で16位に下がったが、レアンドロや若林学の活躍により第29節より4連勝し最終順位13位。ナビスコ杯ベスト8で天皇杯ベスト4。 2006年 クラブスローガン「OMIYA EXPRESS 加速するオレンジ魂」。 三浦体制3年目。各ポジションに選手を補強するも外国人選手が機能せず、最終順位は12位。 2007年 クラブスローガン「シンカ ~進化、真価、深化」。 1999年まで監督を務めたピム・ファーベークの弟・ロバート・ファーベークが監督に就任。 シーズン前半で16位となりファーベークが退任し、強化育成部長の佐久間悟が監督に就任したがチームは不調が続き最終順位15位で辛うじてJ1残留を果たす。 2008年 クラブスローガン「シンカ NEXT~進化、真価、深化」。 三浦の監督退任時からオファーを出していた山形元監督の樋口靖洋が監督に就任。攻撃的なサッカーを志向し、第5節から5戦負け無し(3勝2分)など上位に食い込む兆しを見せ第14節時点では7位につけたが、そこから4連敗を含む5試合未勝利と低迷、その後連勝するも第24節からは5戦連続無得点を含む6連敗を喫し降格圏の17位にまで沈む。リーグ終盤再び5戦負け無し(3勝2分)となって最終的には12勝7分け15敗の12位でシーズンを終えた。同年限りで樋口は退任となった。 2009年 クラブスローガン「橙想心 AGGRESSIVE SHIFT 2009」。 監督に東京Vや札幌で指揮経験のある張外龍を招聘。 5戦負け無し(2勝3分)でスタートを切るものの、開幕当初から主将のMF小林慶行をはじめとしてケガ人が続出したことが響いて第6節からの8試合で4連敗を含む1勝2分5敗と低迷。そこからも苦しい試合が続くが、3連敗を喫しないなど辛うじて降格圏を免れ、ラスト3試合を引き分けて13位でシーズンを終えた。 2010年 クラブスローガン「橙想心 より強く、より高く、より深く」。 張体制2年目。塚本泰史が右大腿骨の骨肉腫を患っていたことが判明。 開幕戦を勝利するも、そこから7試合未勝利(2分5敗)とチームが17位に低迷し、張が監督を退任。後任に元新潟監督の鈴木淳を招聘するとチーム状態は上向き、第15節から5戦負け無し(3勝2分)となるなどチーム状態は回復の兆しを見せ、第27節からの終盤8試合を4勝3分け1敗で乗り切ったこともあり、11勝9分14敗の12位でシーズンを終えた。 なお、この年の10月2日の浦和戦で観客数の水増しが発覚。クラブ側は当初全面否定したが、翌日にリーグ事務局による本格調査が入ると一転してこれを認め、その後の調査で2007年11月以降の主管58試合で各試合4,000人以上、合計111,737人の水増しが行われていたことが明らかになった。10月19日には代表取締役の渡邉誠吾が辞任し、11月16日には日本プロサッカーリーグより譴責(始末書提出)と制裁金2,000万円の処分が課せられた。 2011年 クラブスローガン「上昇宣言 ~リスの木登り~」 鈴木体制2年目。東日本大震災の影響でレギュレーションが変わる中、連勝も連敗もない(第8節から4試合無敗、第14節から3試合未勝利はあり)という順位表の注意を彷徨う星取りで前半を推移したが、後半戦に入ると第18節から3連敗を含む5試合未勝利(2分3敗)、さらに第19節からも5試合未勝利(3分2敗)と15位まで順位を下げる。しかしそこでなんとか踏みとどまり、最終的に10勝12分け12敗の13位でシーズンを終える。 2012年 クラブスローガン「上昇宣言2012 ~リスの木登り~」 鈴木体制3年目。現役復帰を断念した塚本泰史が大宮アンバサダーに就任し、7年間在籍したMF藤本主税が熊本に移籍。 前年同様開幕時から連勝・連敗のない星取りだったが、第12節からの連敗で4勝3分け6敗の15位に沈むと監督の鈴木とヘッドコーチの石井知幸を解任。後任に元スロベニア代表代表監督で千葉などでも監督を務めたズデンコ・ベルデニックを監督として招聘し(7年ぶりの日本復帰)、ユーズコーチの井上卓也をヘッドコーチに昇格させる。 ベルデニックは守備の再整備と戦力の見直しに着手。最前線からの守備を徹底し、中盤を詰めてチームをコンパクトに保つ守備陣形のトレーニングを積み重ね、夏の移籍期間に絶対的エースだったFWラファエルを移籍させる一方で、スロベニア代表のFWズラタンとFWノヴァコヴィッチを獲得する。ベルデニックは「短期間でチームに自分のサッカースタイルを浸透させた」(金澤慎談)ものの、どちらも着任当初はすぐに効果が出ず、就任後10試合で2勝2分6敗と低迷し降格圏の17位にまで沈むが、9月に入って最初のゲームである浦和とのさいたまダービーで数的不利の状況から追いついて引き分けに持ち込むと、そこからのリーグ戦11試合を5勝6分の無敗(この間複数失点0)とし、11勝11分12敗の13位でシーズンを終える。 2013年 クラブスローガン「大宮共闘」 ベルデニック体制2年目。前年から引き続き中盤をコンパクトにした4-4-2 (4-2-2-2)の布陣を敷き、選手全員が最前線からハードワークしてボールを奪いシンプルにFWにつなぐスタイルが浸透。前線こそ曺永哲、ズラタン、ノヴァコヴィッチと各国代表クラスの選手が並ぶものの、日本代表経験のない選手らを中心としたハードワークで勝ち星を積み重ね、劇的な試合展開もありながら、第4節からの7連勝を含む10戦無敗(8勝2分)、前シーズン終盤から通じて21戦無敗という、当時のJ1リーグ無敗記録(それまでの記録は2009年に鹿島が記録した17試合無敗)を更新した。 その後仙台相手に初黒星を喫した後も1杯をキープしたまま前半戦の終盤を迎えるが、真夏が近づくにつれハードワークを要求される大宮の選手たちの疲労が蓄積し、選手の間からもハードな練習メニューに対する不満の声が聞かれるようになった。そして前半戦折り返しの第17節で川崎に逆転負けで3敗目(シーズン初の連敗、ホーム無敗記録も13でストップ)を喫して首位から陥落すると、クラブはこの年ヘッドコーチについていた小倉勉をテクニカルディレクターに異動させてベンチメンバーから外して立て直しを試みるが、さらに連敗を重ねた結果、8月11日にベルデニックを解任、岡本武行GMの代行指揮1試合を挟んで小倉が後任監督に就任した。しかしその後も浮上のきっかけはつかめず、第24節の横浜FM戦を挟んで都合2度の8連敗を喫して失速。第33・34節で連勝するが、結果的に14勝3分17敗の14位でシーズンを終えた。シーズン終了後、GMの岡本と強化部長の古矢武士が退任した。 2014年 クラブスローガン「大宮共闘」 監督として元FC東京監督の大熊清を招聘。海外でプレーしていた家長昭博を完全移籍で獲得するなど戦力の補強を進め、第4節終了時点では2勝2敗の8位とするが、そこから4連敗を含む7戦未勝利(3分4敗)となって降格圏に低迷。その後FC東京戦に勝利するが、そこから再び未勝利となり、ワールドカップによる中断期間を挟んで10戦未勝利(4分6敗)となった第22節終了後の8月31日に大熊を解任。コーチを務めていた渋谷洋樹が監督に就任し、そこからの6戦で5勝1敗と持ち直し一時は降格圏を脱出するものの、第29節からの5戦未勝利(1分4敗)で再び降格圏に沈み、最終節で勝利したものの、残留を争っていた清水が引き分けたために勝ち点で1及ばず、10年間守り続けたJ1の座から下りることとなった。。
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