FC東京監督(第1期)
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1993年から東京ガスに籍を置いたまま、母校の中央大学でコーチを務めた。1994年には鳥原の指示で 鈴木によって東京ガスサッカー部に呼び戻され、今井敏明監督の下、倉又寿雄と共にコーチを務めた。今井の辞任に伴い、同年末の天皇杯から代行として指揮を執った。 1995年に正式に東京ガスSC監督に就任(倉又はヘッドコーチに昇格)。大熊・倉又・鈴木の3人による一枚岩体制で(鳥原談)、「勝ち続けるしかない(大熊談)」チームを牽引した。同年7月、東京ガスは大熊の中央大学での教え子でもあるMF岡島清延を獲得し、布陣を再編。MF藤山竜仁をDF(サイドバック)へとコンバートして守備を安定させ、4バック・ドイスボランチというこれ以後長きに渡って続く基本布陣の原型を作った。1996年には倉又に練習の半分を任せ、高校の先輩でもある田嶋幸三の下でS級ライセンスを受講。1997年の天皇杯ではJリーグの3クラブを破ってベスト4に進出した。1998年にはJFLで優勝。 1999年、クラブがFC東京としてプロ化し、J2(Jリーグ2部)に参加。大熊は東京ガス社員(正式には東京ガスからの出向扱い)のままプロクラブの指揮を執り、同リーグ2位で翌2000年からのJ1(Jリーグ1部)昇格を果たした。大熊は、格上の相手が揃うJ1の中で成績を残すには戦術を徹底させることが必要と考え、一貫してショートカウンターを志向した。開幕戦で対戦した横浜FM・中村俊輔からは「蹴って走るだけの部活サッカー」と嘲られたが、東京の労を厭わずに走るサッカーは当時のJ1においては異色で、序盤に首位を維持した快進撃が認められ、アジアサッカー連盟2000年3月度月間最優秀監督賞を受賞。Jリーグクラブの監督としては5人目、日本人に限ると3人目の快挙だった。大熊の手腕はクラブ内で高く評価されていたものの、クラブの飛躍のためには新たな編成が必要との判断から、2001年限りでFC東京監督を退任。
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FC東京監督(第2期)
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2010年9月19日、城福浩監督の解任に伴い、J2降格圏に低迷していたFC東京の監督に9年ぶりに復帰。同年リーグ優勝した名古屋に勝利するなどチームを立て直したが、最終節に敗れてJ2降格を喫した。 2011年も引き続きFC東京の監督を務め、序盤こそ出遅れたものの、チームに薄れつつあった謙虚さとひたむきさを蘇らせ、J2優勝及び1年でのJ1昇格を果たした。同年限りでの退任が発表されて 臨んだ天皇杯では、クラブ初、J2勢としても初の優勝を果たし有終の美を飾った。 2012年よりFC東京のテクニカルディレクターに就任。育成部長に就いた倉又と共に下部組織を統括し、クラブのスタイルや目標に明確な方向性を持たせるべく「幹の部分(大熊談)」を作ることに尽力した。2013年限りで同職を退任。
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