135フィルムを使用するカメラ
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/19 15:47 UTC 版)
「レンジファインダーカメラ」の記事における「135フィルムを使用するカメラ」の解説
戦前~1950年代前半まで、ライカ判を使用するレンジファインダーカメラを代表する機種といえばライカ(Lマウントライカ、現在はM型に対してバルナック型ライカといった通称でも呼ばれている)であった。小型軽量で機動性に富み、故障が少なかった。 当時のライカには、ドイツ国内に「コンタックス」という強力なライバルが存在した。特に後のM型ライカ(1954年、M3を発表)の特長点のうち、コンタックスが先行していたものを挙げると、バヨネットマウントは1932年発売のコンタックスI型、距離計一体型ファインダーと一軸不回転式シャッターダイヤルは1936年発売のコンタックスII型ですでに実現している。しかしそのために、当時は高額商品であった小型精密カメラの中でも、ライカよりもさらに高額なカメラでもあった。そもそも小型カメラばかりでなく、メーカーのツァイス・イコンは1930年代当時ドイツ最大の光学機器メーカーとして君臨していたカール・ツァイスのカメラ部門であり、ライカを製造していたエルンスト・ライツ(現ライカ)とは、激しい開発競争や販売合戦を繰り広げていた仲であった。極論すればドイツの戦前のライカ判高級カメラはライカとコンタックスの2機種であり、日本のメーカーも大きな影響を受けている。 Lマウントライカは多数のコピー機が作られ、コピーライカと呼ばれる。コピーに当たって一番問題になったのは「距離計の2つの窓の間にファインダーを入れる」というライカが持っていた特許だったが、戦前精機光学(現キヤノン)は飛び出し式ファインダー、昭和光学精機(レオタックス)は基線長が短くなることを覚悟で距離計の外側にファインダーを持って来てライツの特許を回避した。また第二次世界大戦中ドイツからの輸入が止まり軍用カメラの必要性から各国で軍部が「特許を無視して製造せよ」と命じてアメリカのカードン、日本のニッポンカメラが作られた。戦後はドイツの特許が無効化されキヤノン、ニッカカメラ(後のヤシカ)、レオタックスカメラ、イギリスのリード&シギリスト(リード)などがこぞってライカを模倣し、互換機ないしはデッドコピーを作り続けて技術を磨き、さらには改良した機種を作り始めた。なお、こういったコピー機のブランド刻印等を削り取ってライカの刻印を偽装した偽物はフェイクライカと呼ばれている。 第二次世界大戦の終結は新たな形の戦争である東西冷戦の幕開けでもあった。東西に分割されたドイツは離散家族など多くの悲劇を見ることとなったが、その拠点が両ドイツに分散してしまったツァイス・イコン他の企業の運命もそのひとつに数えられるだろう。カメラは軍事面との繋がりもあることなどから東ドイツのカメラについての情報は従来不十分であったが、リヒャルト・フンメルらの『東ドイツカメラの全貌』にドレスデンと一眼レフカメラを中心として詳細が述べられている。 一方で西ドイツの復興と軌を一にして復活したライツだが、日本メーカー等各社が独自の改良を続けて利便性を高める中、ライカは「伝統と信頼性は高いものの時代遅れのカメラ」になりかけていた。1954年のフォトキナで、ライツは設計のほとんど全てを刷新し、バヨネットマウント、装着レンズに応じて枠を自動的に切り替える実像式距離計一体型ブライトフレームファインダー、一軸不回転等間隔シャッターダイヤル、等といったスペックのライカM3を発表した。 旧型ライカを至上として「追いつけ追い越せ」であった日本のカメラメーカー各社にとって、この新型ライカは衝撃であった。日本光学はその後の「ニコンSP」以降レンジファインダー機の大幅な改良は止め、一眼レフの「ニコンF」へと進んだ。ミノルタのM型ライカ対抗機「ミノルタスカイ」は生産されず「幻のカメラ」となり、同社もやはり一眼レフに進んだ。キヤノンは1959年の一眼レフ「フレックス」の後もしばらくレンジファインダー機の改良型を出し続けたが、1965年の「7S」が最後となった。 そのようにして高価格帯レンズ交換式35mmカメラの主流は一眼レフに移ったため、M型ライカはほぼ唯一の高級レンズ交換式レンジファインダーカメラとしてその後も改良を続け、主なモデルとしてはM4~M7まで進んだ後、M8でディジタルカメラとなった。他に小型化と一部電子化を図ったモデルとして、ミノルタとの提携によるライツミノルタCL(1973年)とミノルタCLE(1981年)があったが、直接の後続は無かった。 低価格帯のレンズ固定式のカメラでは、その後も下位モデルはビューファインダー・上位モデルは虚像式レンジファインダーというようにしてレンジファインダーモデルが存続したが、「ピッカリコニカ」(1975年)に始まる1970年代後半からのストロボ内蔵とほぼ入れ替わりにレンジファインダーモデルが消え始め、続く「ジャスピンコニカ」(1977年)や「キヤノンオートボーイ」(1979年)に代表されるオートフォーカス化によりレンジファインダーモデルはほぼ消滅した。 しかし皆無というわけでもなく、初代オリンパスXA(1978年)、Agfa Optima 1535 Sensor、京セラの初代コンタックスT(1984年、1990年のT2はオートフォーカス)といったレンジファインダー機があった。コンタックスT2からその後1990年代のいわゆる「高級コンパクト機」というジャンルが広がったが、それらはいずれもオートフォーカス機であった。 1990年代にちょっとしたクラシックカメラブームがあり、その波に乗って2000年前後にいくつかのレンズ交換式カメラが現れた。京セラのコンタックスG(1994年)はオートフォーカスレンジファインダーと銘打ったが、撮影者が目視して使える距離計は備えていない。コニカの高級機「ヘキサー」のレンズ交換式上位モデルである「ヘキサーRF」(1999年)、コシナのフォクトレンダーブランドの「ベッサ」シリーズ(1999年~、コシナ・フォクトレンダーのカメラ製品一覧を参照)、「安原一式」(1999年)などがまず挙げられる。続いてニコンが、ニコンS3を2000年、ニコンSPを2005年に、ともに限定品として復刻販売した。2005年にはコシナのツァイスブランドで「ツァイス・イコン」が発売された(ツァイス・イコン#新生ツァイスイコン)。コシナ「ツァイス・イコン」にはボディ左右端の形状に、前述のミノルタCLE及びミノルタの高級コンパクト機TC-1の影響がある。以上に挙げた機種は、コシナベッサのマニュアル機械式シャッター機であるR2M・R3M・R4Mの各機(モデルはファインダー倍率の違い)の2015年9月を最後に、全て生産終了している。
※この「135フィルムを使用するカメラ」の解説は、「レンジファインダーカメラ」の解説の一部です。
「135フィルムを使用するカメラ」を含む「レンジファインダーカメラ」の記事については、「レンジファインダーカメラ」の概要を参照ください。
- 135フィルムを使用するカメラのページへのリンク