1351年反逆法
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「首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑」の記事における「1351年反逆法」の解説
詳細は「1351年反逆法(英語版)」を参照 エドワード2世の時代に起きた初代カーライル伯爵アンドリュー・ハークレイ(英語版)やヒュー・ル・ディスペンサーなどの処刑は、反逆行為に対する刑罰がまだコモンローで明確に定義されていない時代に起こったものであった。反逆罪は14歳以上のすべての臣下の君主に対する忠誠を基準とし、その忠誠が破られたかどうかを判断するのは国王と王の裁判官に委ねられていた。エドワード3世下の裁判官はどのような行為が反逆罪を構成するかについて、やや大袈裟な解釈を行い、「反逆を重罪と名付け、王権への侵犯として起訴する」としていたために、議会から法の明確化を求める声が挙がっていた。このためにエドワード3世は1351年に反逆法(1351年反逆法)を制定した。この法はイギリスの歴史の中でも君主の統治権に対するいかなる嫌疑もない時代に制定されたものであったため、したがって主に君主を保護するために書かれたものであった。新しい法律は以前に存在していた反逆罪の定義を狭め、古い封建的な犯罪を2つに分類した。この内、一般の反逆罪は召使いが主人(または領主)を殺した場合、妻が夫を殺した場合、聖職者が(自らの上役の)高位聖職者を殺した場合を指し、この場合、男は絞首刑に、女は火炙りにされた。 一方は大逆罪であり、個人が犯しうる最も重い罪と定義された。王の権威を貶めようとする試みは被告人が国王に直接危害を加えたものと同等に重大なものと見なされ、それ自体が主権者である国王の地位への攻撃であり、統治権に対する直接的な脅威となる。これは国家を弱体化させるおそれがあるために報復が絶対的に必要なものであり、よってその刑罰は究極のものでなければならないと考えられていた。したがって、2つの反逆罪の実質的な違いは有罪判決を受けた後にあった。男は単なる絞首刑ではなく、首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処され、女は公序良俗の観点(女性の身体を解体することは刑罰として不適切と見なされた)から、首吊り・火炙りとされた。 この法では以下の場合に大逆罪を犯したとみなした。 王または王妃、あるいはその嫡男や王位継承者の死を暗示したり望む。 王妃、または未婚の王女、あるいは嫡男や王位継承者の妻を犯す。 王への反乱を起こす。 王の敵を支持し、国内外で援助する。 国璽や王璽、あるいは王によって発行された硬貨の偽造を行う。 故意に偽造貨幣を国内に持ち込む。 大法官や大蔵卿(英語版)、国王の裁判官をその執政中に殺害する。 この法律は反逆罪の範囲を定義する際の国王の権限を制限するものではなかった。この法律にはイングランドの裁判官が必要に応じてその範囲を拡大できる裁量権を与える旨の条項が含まれており、これはより一般的には擬制的反逆罪(Constructive treason)として知られているものであった。これはイギリスの海外植民地時代のアメリカ大陸の臣民にも適用された。ここで首吊り・内臓抉り・四つ裂きの刑に処されたと記録に残っている唯一の事例は、大沼の戦い(英語版)においてナラガンセット側で戦ったと告発されたイギリス人入植者ジョシュア・テフトの事件であった。彼は1676年1月に処刑された。これより後に起こった反逆罪に対する判決は、恩赦または絞首刑であった。
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