韓国との「統一」
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「朝鮮民主主義人民共和国の国際関係」の記事における「韓国との「統一」」の解説
詳細は「北南朝鮮関係」および「朝鮮統一問題」を参照 「南北共同声明」、「高麗民主連邦共和国」、「南北基本合意書」、「南北首脳会談」、「太陽政策」、「6.15南北共同宣言」、および「中国朝鮮関係史」も参照 1950年6月25日の朝鮮戦争開戦から1953年7月27日の朝鮮戦争休戦協定署名以後、数十年間に渡り、南北朝鮮の関係は浮き沈みを繰り返した。 1960年に四月革命が勃発し、初代韓国大統領であった李承晩が韓国の学生、市民によって打倒された後、同1960年8月14日に首相の金日成は「連邦制統一案」を提案し、北南両政府代表による「最高民族委員会」の設立を訴えたが、翌1961年の朴正煕陸軍少将による5・16軍事クーデター以後、この提案は顧みられずに流れてしまった。 1971年8月、南北朝鮮は朝鮮分断統治および朝鮮戦争期に生じた多くの離散家族の再会を目指し、赤十字社を通じて対話を持つことで合意した。数度の非公式な会合の後、1972年7月4日、両国は平和的統一と半島を覆っていた敵対的な雰囲気を終結させることで合意し、「南北共同声明」を発表した。赤十字社の調整により両政府間の相互訪問と定期的な対話の機会が設けられた。しかし、1973年、これらの交流は単独での国連加盟を望む韓国の思惑と、朴正煕大統領の維新クーデター直前の韓国の野党・新民党の大統領候補金大中が日本の東京滞在中に大韓民国中央情報部(KCIA)によって拉致された金大中拉致事件により、朴正煕から中止が発表された。 その後、金日成主席は1980年10月10日に「高麗民主連邦共和国」創設を全斗煥大統領に提唱したが、南北朝鮮は1984年まで大きな接触はなかった。 1984年9月、韓国は深刻な洪水を契機に北朝鮮の救援物資を受け入れ、対話は再開された。赤十字は離散家族の再会事業を再開し、政府レベルでの経済や貿易の交流が行われた。しかし、1986年1月、北朝鮮は米韓合同軍事演習「チーム・スピリット」が対話の精神に矛盾していると主張してすべての対話を中止した。その後1988年開催予定のソウルオリンピックの共催について短い間に多くの話し合いが行われたが失敗に終わり、その後大韓航空機爆破事件が起きた。 1988年7月、韓国の盧泰愚大統領のイニシアティブにより、南北の交流、離散家族の再会、南北朝鮮間の貿易と国際フォーラムでの接触など新しい南北交流を呼びかけた。その後、盧泰愚は国連総会の演説でもこのイニシアティブについて語り、北朝鮮と初めて安全保障問題について話し合うことを提案した。 盧泰愚大統領が提案した協議は1989年9月に開始された。1990年9月、8回行われた南北高位級会談の第1回目がソウルで行われ、実りある対話が開始された。高位級会談では2つの合意文書が交わされた。南北の和解と不可侵および交流、協力に関する合意書(南北基本合意書)と朝鮮半島の非核化に関する共同宣言(南北非核化共同宣言)である。 南北基本合意書は1991年12月13日に締結され、南北の和解と不可侵および4つの共同委員会の設立が公約として掲げられた。これら4つの委員会(南北和解共同委員会、南北軍事共同委員会、南北経済協力・交流共同委員会、南北社会文化協力・交流共同委員会)は基本合意の一般条項を履行するためのものである。問題の詳細を審査する分科委員会は板門店に連絡事務所を設けた。しかし、1992年秋、核問題の緊張の高まりによってプロセスは中止された。 非核化に関する共同宣言は1991年12月31日に交わされた。核の実験、製造、授受、保有、配備、使用と核の再処理施設、ウラン濃縮施設の保有が禁止された。南北朝鮮による査察団が組織され、南北核統制共同委員会(JNCC)に半島の非核化を確認する権限が与えられた。 北朝鮮は1985年に核拡散防止条約に署名する際、国際原子力機関(IAEA)と核の不拡散で合意していたが、1992年1月30日、北朝鮮は再びIAEAと合意した。この合意により、1992年6月、IAEAは査察を開始した。1992年3月、南北非核化共同宣言で南北核統制共同委員会を設立することで一致したが、その後の会合で両国による査察体制の確立について合意には至らなかった。 1990年代が進むにつれて、北朝鮮核問題は南北関係と米朝関係の主要な議題になった。南北朝鮮核査察体制による非核化共同宣言の履行は遅々として進まなかったため、1993年、米韓合同軍事演習が再開された。北朝鮮が1993年にIAEAの査察官に対し疑惑の放射性廃棄物最終処分場への立ち入りを禁止すると状況は急速に悪化し、1993年、核拡散防止条約からの脱退を表明した。その後2年間、米国は北朝鮮との直接対話に応じ、一連の核問題に関する合意に至った。1994年、米国のジミー・カーター元大統領は北朝鮮を訪問して金日成主席と会談し、史上初の南北首脳会談を行うことで合意した。両国は7月に再び協議を行う予定であったが、金日成の死去により延期された。なお、米朝関係に於いては金日成主席死後、米国との間で1994年10月21日に米朝枠組み合意が結ばれている。 1960年代から1970年代にかけて「漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長を経た韓国は、アジアの虎としての地位を占める一方で、1998年に成立した金大中政権の「太陽政策」により北朝鮮に対して援助の手を差し伸べた。2000年には南北首脳会談が実施され、金大中大統領と金正日国防委員長の間で6.15南北共同宣言が締結された。1998年2月25日から2008年2月24日までの間、金大中、盧武鉉の両政権によって実施された「太陽政策」により、韓国は食料や他の援助物資を北朝鮮に送ったが、北朝鮮の核兵器開発計画には融和的態度をとった。 2008年2月25日に韓国大統領に就任した親米保守派の李明博は対北朝鮮宥和政策であった太陽政策を転換した。北朝鮮側も韓国からの宥和政策転換に応じ、2008年3月27日、北朝鮮は軍事境界線付近にある開城工業地区に駐在していた韓国の11人の統一部職員の退去を要求し、韓国は彼らを召還した。2008年3月17日、韓国の金夏中統一部長官は北朝鮮核問題の進展がない限り工業地区の拡張は難しいと語った。 2008年3月28日、韓国の国防筋は北朝鮮が西海岸に向け短距離ミサイルの発射したと伝えたが、韓国大統領府は北朝鮮の「通常の軍事訓練」だとしてとりあわなかった。2008年3月27日、韓国政府は北朝鮮から統一部職員11名を召還し、金夏中統一部長官が会見を行った。彼は北朝鮮核問題の進展がない限り経済協力は難しいと語った。 2008年10月、北朝鮮は韓国が「中傷キャンペーン」を行っているとして戦争の対話を徐々にやめていった。北朝鮮の軍部は韓国が敵視政策をやめなければ韓国を「瓦礫の山」にすると脅迫した。北朝鮮の軍部のスポークスマンは「傀儡政権は我々独自の進んだ先制攻撃がわが国に反対するものをすべて破壊し、統一も水泡に帰すことを覚えておいたほうがいい」と語った。これは両国の軍の幹部が司令官のコミュニケーションを改善する方法を面と向かって話し合ったという稀な出来事の翌日に起こった。しかし、この問題はその後何の進展もない。
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