韓国との「統一」とは? わかりやすく解説

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韓国との「統一」

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/09 13:28 UTC 版)

朝鮮民主主義人民共和国の国際関係」の記事における「韓国との「統一」」の解説

詳細は「北南朝鮮関係」および「朝鮮統一問題」を参照南北共同声明」、「高麗民主連邦共和国」、「南北基本合意書」、「南北首脳会談」、「太陽政策」、「6.15南北共同宣言」、および「中国朝鮮関係史」も参照 1950年6月25日朝鮮戦争開戦から1953年7月27日朝鮮戦争休戦協定署名以後数十年間渡り南北朝鮮の関係は浮き沈み繰り返した1960年四月革命勃発し初代韓国大統領であった李承晩韓国学生市民によって打倒された後、同1960年8月14日首相金日成は「連邦制統一案」を提案し、北南両政府代表による「最高民族委員会」の設立訴えたが、翌1961年朴正煕陸軍少将による5・16軍事クーデター以後、この提案顧みられずに流れてしまった。 1971年8月南北朝鮮朝鮮分断統治および朝鮮戦争期生じた多く離散家族再会目指し赤十字社通じて対話を持つことで合意した数度非公式な会合の後、1972年7月4日両国平和的統一半島覆っていた敵対的な雰囲気終結させることで合意し、「南北共同声明」を発表した赤十字社調整により両政府間の相互訪問定期的な対話機会設けられた。しかし、1973年、これらの交流単独での国連加盟を望む韓国思惑と、朴正煕大統領維新クーデター直前韓国野党新民党大統領候補金大中日本の東滞在中に大韓民国中央情報部KCIA)によって拉致され金大中拉致事件により、朴正煕から中止発表された。 その後金日成主席1980年10月10日に「高麗民主連邦共和国創設全斗煥大統領提唱したが、南北朝鮮1984年まで大きな接触はなかった。 1984年9月韓国深刻な洪水契機北朝鮮救援物資受け入れ対話再開された。赤十字離散家族再会事業再開し政府レベルでの経済貿易交流が行われた。しかし、1986年1月北朝鮮米韓合同軍事演習チーム・スピリット」が対話精神矛盾していると主張してすべての対話中止したその後1988年開催予定ソウルオリンピック共催について短い間に多く話し合いが行われたが失敗終わりその後大韓航空機爆破事件起きた1988年7月韓国盧泰愚大統領イニシアティブにより、南北交流離散家族再会南北朝鮮間貿易国際フォーラムでの接触など新し南北交流呼びかけた。その後盧泰愚国連総会演説でもこのイニシアティブについて語り北朝鮮初め安全保障問題について話し合うことを提案した盧泰愚大統領提案した協議1989年9月開始された。1990年9月、8回行われた南北高位会談第1回目ソウル行われ実りある対話開始された。高位会談では2つ合意文書交わされた。南北和解不可侵および交流協力に関する合意書南北基本合意書)と朝鮮半島の非核化に関する共同宣言南北非核化共同宣言)である。 南北基本合意書1991年12月13日締結され南北和解不可侵および4つ共同委員会設立公約として掲げられた。これら4つ委員会南北和解共同委員会南北軍事共同委員会南北経済協力交流共同委員会南北社会文化協力交流共同委員会)は基本合意一般条項履行するためのものである問題詳細審査する分科委員会板門店連絡事務所設けた。しかし、1992年秋、核問題緊張の高まりによってプロセス中止された。 非核化に関する共同宣言1991年12月31日交わされた。実験製造授受保有配備使用再処理施設ウラン濃縮施設保有禁止された。南北朝鮮による査察団が組織され南北統制共同委員会(JNCC)に半島非核化確認する権限与えられた。 北朝鮮1985年核拡散防止条約署名する際、国際原子力機関IAEA)と不拡散合意していたが、1992年1月30日北朝鮮は再びIAEA合意した。この合意により、1992年6月IAEA査察開始した1992年3月南北非核化共同宣言南北統制共同委員会設立することで一致したが、その後会合両国による査察体制確立について合意には至らなかった。 1990年代が進むにつれて北朝鮮核問題南北関係米朝関係主要な議題になった南北朝鮮核査察体制による非核化共同宣言履行遅々として進まなかったため、1993年米韓合同軍事演習再開された。北朝鮮1993年IAEA査察官対し疑惑放射性廃棄物最終処分場への立ち入り禁止する状況急速に悪化し1993年核拡散防止条約からの脱退表明したその後2年間、米国北朝鮮との直接対話応じ一連の核問題に関する合意至った1994年米国ジミー・カーター大統領北朝鮮訪問して金日成主席会談し史上初の南北首脳会談を行うことで合意した両国7月に再び協議を行う予定であったが、金日成死去により延期された。なお、米朝関係に於いては金日成主席死後米国との間で1994年10月21日米朝枠組み合意結ばれている。 1960年代から1970年代にかけて漢江の奇跡」と呼ばれる高度経済成長経た韓国は、アジアの虎としての地位占め一方で1998年成立した金大中政権の「太陽政策」により北朝鮮に対して援助の手差し伸べた2000年には南北首脳会談実施され金大中大統領と金正日国防委員長の間で6.15南北共同宣言締結された。1998年2月25日から2008年2月24日までの間、金大中盧武鉉の両政権によって実施された「太陽政策」により、韓国食料や他の援助物資北朝鮮送ったが、北朝鮮核兵器開発計画には融和的態度をとった。 2008年2月25日韓国大統領就任した親米保守派李明博対北朝鮮宥和政策であった太陽政策転換した北朝鮮側も韓国からの宥和政策転換応じ2008年3月27日北朝鮮軍事境界線付近にある開城工業地区駐在していた韓国11人の統一部職員退去要求し韓国は彼らを召還した2008年3月17日韓国金夏中統一部長官北朝鮮核問題進展がない限り工業地区拡張難しいと語った2008年3月28日韓国国防筋は北朝鮮西海岸に向け短距離ミサイルの発射したと伝えたが、韓国大統領府は北朝鮮の「通常の軍事訓練」だとしてとりあわなかった。2008年3月27日韓国政府北朝鮮から統一部職員11名を召還し金夏中統一部長官会見行った。彼は北朝鮮核問題進展がない限り経済協力難しいと語った2008年10月北朝鮮韓国が「中傷キャンペーン」を行っているとして戦争対話徐々にやめていった北朝鮮軍部韓国敵視政策をやめなければ韓国を「瓦礫の山」にすると脅迫した北朝鮮軍部スポークスマンは「傀儡政権は我々独自の進んだ先制攻撃わが国反対するものをすべて破壊し統一水泡に帰すことを覚えておいたほうがいい」と語った。これは両国の軍の幹部司令官コミュニケーション改善する方法面と向かって話し合ったという稀な出来事翌日起こった。しかし、この問題その後何の進展もない。

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