詔勅の種類
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/21 07:19 UTC 版)
明治前期の詔勅は法規分類大全によって分類・列挙された。法規分類大全は内閣記録局が作成したものであり、帝国憲法が発布された1889年(明治22年)までの詔勅がその第1編に収録され、帝国憲法が施行された1890年(明治23年)の詔勅がその第2編に収録された。 法規分類大全は、明治維新の後の綸言(天皇の言葉)を詔勅と総称し、勅書・勅旨・勅諭など名称は様々あっても実質は同じであるとした。また、詔勅を分類して、詔、勅、御宸翰、上諭、勅諭、宣命、御祭文、御告文、勅問、御下問、勅旨、勅語、策命、誄辞、御沙汰書、御委任状、訓条、御国書、御親書、御批准書、証認状の順に列挙した。 詔については、その例として1868年改元の詔、1870年大教宣布、1872年改暦の詔、1873年地租改正の詔などがあった。詔勅の形式が様々ある中で、広く大事を宣布するときは、概ね詔で行い、勅を用いることはなかった。ただし、小事に詔を用いることはあった。詔には太政官の布告を副えることもあれば副えないこともあった。詔は概ね御璽や奉勅の形式をとらなかった。 勅については、1869年(明治2年)陰暦正月の政始式を小御所に行って文武諸官を奨励したのが最初の勅書であった。このとき輔相が勅書を読み上げ、勅書の写しをもって諸官に伝えた。その後、概ね以下のようなものを勅と称した。徴召としては、例えば1869年(明治2年)の長州藩主の徴召の勅があった。派遣として、例えば1871年(明治4年)の伊達宗城の清国派遣の勅や、1882年(明治15年)の伊藤博文の欧州派遣の勅があった。賞賜は、功労を褒賞し賜金や叙勲を行う類いであった。褒貶のうち褒は使臣の復命や将官の凱旋に際してこれにお褒めの言葉を下す類いであり、貶としては例えば1879年(明治12年)に琉球藩の不審を糺す勅があった。慰問は、例えば1873年(明治6年)に大臣の病気を慰問した勅があった。このほか軍の総督以下を慰問する類いであった。奨励としては、例えば1871年(明治4年)に華族を奨諭した勅があった。臨時職任命は征討総督や参軍を命じる類いであった。命令としては例えば元老院に国憲の起草を命じる勅があった。委任は巡幸に際して大臣に庶政を委ねる類いであった。以上のほか、式典に行幸して言葉を賜う類いがあった。 御宸翰(天皇の真筆の書簡)としては、1968年(明治元年)陰暦3月14日の御宸翰があった。法規分類大全にはこれ一点しか収録されなかった。 上諭は律の頒布の際や公文式の公布の際に付された。公文式制定により法律や勅令は上諭を以って公布されることになった。 勅諭は諭したり戒めたりするときに用い、宣布に用いることは少なかった。1881年(明治14年)の国会開設の勅旨には勅諭の名称を用いた。これには奉勅大臣が署名した。公衆に宣諭するためであった。翌年(明治15年)の陸海軍人への勅も勅諭の名称を用いた。これには御名御璽があって奉勅がなかった。天皇みずから将卒に訓告したためであった。このことは参議山県有朋の奏請に詳しい。同年、幼学綱要を頒布する勅諭は宮内卿が奉じた。どれも他の詔勅と事体が異なるためであった。 宣命は維新後もっぱら神祇や山陵に用いた。政治に関する宣勅は概ね詔勅の形式をもって行い、これに宣命を用いることがなかった。1873年(明治6年)に宣命を御祭文に改称し、宣命の名称はなくなった。 御祭文は、勅使が神前で奏した。法規分類大全に御祭文として分類されたものを見ると、五箇条の御誓文の際に天神地祇へ奏した御祭文と、皇室典範と帝国憲法発布の際に伊勢神宮へ奏した御祭文があった。どちらも天皇以外が読み上げる形式であり、天皇の一人称を伴うものではなかった。 御告文は天皇みずから親祭するときのものである。法規分類大全に御告文として分類されたものを見ると、1875年(明治8年)に2件、1889年(明治22年)2月11日に皇室典範・帝国憲法を発布する際の賢所御告文と紀元節御告文があった。1889年の御告文は、天皇みずから神前で読み上げる形式であり、天皇の一人称は「皇朕」(すめらわれ)であった。なお、この御告文について、法規分類大全に収録されたものと官報に掲載されたものとを比べると、構成・内容・表記が違っている。 勅問として法規分類大全に収録されたものは、1869年(明治2年)、万機施設の方法を勅問した1件のみであり、そのほかに御下問として収録されたものが同年に3件あった。 勅旨については、法規分類大全の目録では、1871年(明治4年)の特命全権大使岩倉具視への勅旨と、1873年(明治6年)の外務卿副島種臣への勅旨についてのみ、勅旨として分類していた。それぞれ内容をみると、岩倉への勅旨は、岩倉を米欧に派遣するものであり、その勅旨の後ろに、条約改正に関する別勅旨と、岩倉に随行する理事官への勅旨が付属していた。副島への勅旨は、琉球藩民54人が台湾で殺害された事件の処置について全権を委任するものであり、この勅旨の後ろに、清国政府との交渉に関する別勅が付属していた。これら付属の別勅は、大臣に伝達させる形式であり、冒頭に「勅旨」の文字を掲げ、その次に事項を列挙し、末文を「右勅旨件件遵奉シテ愆ルコト勿ルヘシ」(右、勅旨、件々遵奉してあやまることなかるべし)といった語句で結び、最後に奉勅大臣が署名していた。 勅語は、吉凶軍賓嘉(祭祀・喪葬・軍事・外賓・冠婚)の五礼の際に下された。また臨時に内外人を引見したり式場に行幸したりして直接に口勅することがあり、文書に写して与えることがあった。教育勅語は、渙発翌日の官報では宮廷録事に「教育ニ関スル勅語」と称され、文部省訓令別紙に「勅語」の題をつけられたが、内閣記録局の法規分類大全では「教育ニ関スル勅諭」と称され勅諭に分類され、勅語に分類されなかった。後年、教育勅語は詔書に当るとされ、天皇の親署と御璽を有する詔書でありながら国務大臣が副署せず正式に宣誥もしなかったのは変例であるとされた。 策命(過去の人物を追賞する勅命)として法規分類大全に収録されたものは、楠木正行(南朝方武将)や大石良雄(赤穂浪士)などを追賞する策命が5件あった。 誄辞(弔辞)は、その形体は様々であり、初め駢体の漢文を用い、後に改めて和文を用いる形式になった。御璽を押し奉勅大臣が署名し、贈官・贈位は別に官記・位記を副えるのを正式とした。あるいは御沙汰書を用いてその子孫に賜うことがあった。法規分類大全の目録で誄辞に分類されたものは18件であった。 御沙汰書は天皇の意思を太政官や大臣が伝達する形式であり、褒賞・譴責・贈賜・弔祭・慰諭・奨励などにこの形式を用いた。維新当初に王政復古の大号令や征討の大号令と称するものもこの形式の一種であった。御沙汰書は詔勅布告の外にあってその用例は最も広かった。御沙汰書に直接その内容を書くことがあり、また御沙汰書を詔勅・官記・位記などに副えることもあった。いずれも大臣奉勅の例はなかった。法規分類大全の目録で御沙汰書に分類されたものは4件しかなかった。
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