詔勅論争とは? わかりやすく解説

詔勅論争

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/01 05:21 UTC 版)

第30回帝国議会」の記事における「詔勅論争」の解説

立憲政友会総裁西園寺公望)は衆議院57パーセント議席占めており、尾崎行雄らは個人資格護憲運動たずさわっていた。議会停会中、護憲運動はさらに過熱した1月24日東京・新富座にて憲政擁護第2回大会開かれ会場内に3千人会場外には2万人に大群衆が詰めかけた。ただし、西園寺総裁以上に影響力のある原敬は、従来同様、連携して政友会党勢拡大含み残したい考えていたので護憲運動への関与は慎重であった現実主義者である彼は熱しやすく冷めやすい民衆運動信を置いていなかった。しかし、護憲運動のなかで政友会人気急上昇しているようすをみて、につかず離れず姿勢から1913年1月中旬以降桂内閣に対して対決路線シフトしていった。 議会再開され1913年2月5日第30回帝国議会立憲政友会立憲国民党桂太郎内閣不信任決議案提議した。このとき、尾崎行雄は以下のような有名な弾劾演説行っている。 …彼等は常に口を開けば直ち忠愛唱へ恰も忠君愛国自分一手専売如く唱へおりますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵狙撃するが如き挙動をとっておるのである彼等は、玉座を以て胸壁為し詔勅を以て弾丸に代へて政敵倒さんとするものではないかかくの如きことをすればこそ、身既に内府入って未だ何も為さざるに当りて、既に天下物情騒然として却々静まらない。… この趣旨説明演説の後、議会再度5日間の停会となり、議会周辺詰めかけた群衆の間では騒然とした空気になった2月10日数万群集野党激励するため国会議事堂包囲し結局1913年2月11日第3次桂内閣総辞職した大正政変)。後継内閣海軍大将山本権兵衛立憲政友会与党として組織した第1次山本内閣では、政友会から原敬内務大臣高橋是清大蔵大臣として入閣した1913年3月26日第30回帝国議会閉会した

※この「詔勅論争」の解説は、「第30回帝国議会」の解説の一部です。
「詔勅論争」を含む「第30回帝国議会」の記事については、「第30回帝国議会」の概要を参照ください。

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