詔勅論争
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立憲政友会(総裁:西園寺公望)は衆議院で57パーセントの議席を占めており、尾崎行雄らは個人の資格で護憲運動にたずさわっていた。議会停会中、護憲運動はさらに過熱した。1月24日、東京・新富座にて憲政擁護第2回大会が開かれ、会場内に3千人、会場外には2万人に大群衆が詰めかけた。ただし、西園寺総裁以上に影響力のある原敬は、従来同様、桂と連携して政友会の党勢拡大の含みを残したいと考えていたので護憲運動への関与は慎重であった。現実主義者である彼は熱しやすく冷めやすい民衆運動に信を置いていなかった。しかし、護憲運動のなかで政友会の人気が急上昇しているようすをみて、桂につかず離れずの姿勢から1913年1月中旬以降は桂内閣に対して対決路線にシフトしていった。 議会が再開された1913年2月5日、第30回帝国議会で立憲政友会と立憲国民党は桂太郎内閣の不信任決議案を提議した。このとき、尾崎行雄は以下のような有名な弾劾演説を行っている。 …彼等は常に口を開けば、直ちに忠愛を唱へ、恰も忠君愛国は自分の一手専売の如く唱へておりますが、その為す所を見れば、常に玉座の蔭に隠れて政敵を狙撃するが如き挙動をとっておるのである。彼等は、玉座を以て胸壁と為し、詔勅を以て弾丸に代へて政敵を倒さんとするものではないか。かくの如きことをすればこそ、身既に内府に入って未だ何も為さざるに当りて、既に天下の物情騒然として却々静まらない。… この趣旨説明の演説の後、議会は再度、5日間の停会となり、議会周辺に詰めかけた群衆の間では騒然とした空気になった。2月10日、数万の群集が野党を激励するため国会議事堂を包囲し、結局1913年2月11日、第3次桂内閣は総辞職した(大正政変)。後継内閣は海軍大将山本権兵衛が立憲政友会を与党として組織した。第1次山本内閣では、政友会から原敬が内務大臣、高橋是清が大蔵大臣として入閣した。1913年3月26日、第30回帝国議会は閉会した。
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