詔書の名称と通称
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/13 14:14 UTC 版)
「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」の記事における「詔書の名称と通称」の解説
一般の詔書と同様、この詔書にも正式名称はない。便宜的に付された名称は、太政官の編纂による『詔勅録』では「江戸ヲ東京ト改称ノ詔」とし、内閣官報局『法令全書』は目録や索引で「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔書」とし、国立公文書館では件名を「江戸ヲ称シテ東京ト為スノ詔」(一字違い)としている。 また、通称の「東京奠都の詔」は、後年に至って用いられたものと思われる。1940年(昭和15年)に文部省が明治維新の歴史を詳細に記した『概観維新史』(文部省維新史料編纂会編)では、この詔を「東京奠都の詔」と称し、1872年(明治5年)に英照皇太后が東京に移るに至って事実上の東京遷都となったとした。その翌年の本編『維新史』第五巻では「車駕東幸の詔書」と称し、この詔を奠都の旨を公表するものではないと解釈し、皇城を宮城と改称するに至って東京が事実上の皇都の地位を得たとしている。 なお、太政官あるいは内閣記録局が、1885年(明治18年)頃に編纂した『太政官沿革志』(親政体制一)では、「車駕東幸、十月十三日ヲ以テ東京城ニ抵リ、本城ヲ以テ奠メテ皇居ト為シ、踰ヘテ一日先ツ親政ノ令ヲ布ク。是ヲ奠都以還親政ノ始トス。」として、10月17日の「布告」(『詔勅録』によれば「東幸親政正議直諌セシムルノ詔」)に先立つ、天皇の東京入城を「奠都」の契機としており、「奠都」の語自体は早くから用いられていた。794年の平安遷都は平安奠都とも呼ばれていた。
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