評を制定したのは九州倭国
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「九州王朝説」の記事における「評を制定したのは九州倭国」の解説
「評」を制定していたのはヤマト王権に先行した九州倭国であるという主張がある。九州年号では大化元年は695年であり、大化の改新の政変により九州倭国に代わり畿内日本が政権を握り「評」に代わり「郡」が使われるようになったと考えられることとする。 『日本書紀』では「大化の改新」時に「郡」が成立したと記すが、出土した文書(木簡類)により「郡」と言う用語が実際に用いられるのは、大宝律令が制定された文武天皇5年(701年)以降であり、文武天皇4年(700年)以前は「評」を使っていたことが確認されている。 斉明7年(661年)6月と天智7年(688年)に二度も逝去記事がある伊勢王に関する次の記事は34年前の事であり、640年代に九州倭国は評制度を樹立改革していたと考えられるということとする。朱鳥元年(686年)9月の天武天皇の葬儀 → 白雉3年(652年)の孝徳天皇の葬儀 天武12年(683年)12月天下を巡行し、諸国の境界を分限 → 649年 天武13年(684年)10月諸国の境界を定めた → 650年 天武14年(685年)10月東国へ向った → 651年 『伊予三島縁起』には「孝徳天王位、番匠初。常色二戊申、日本国御巡礼給。」(孝徳天皇のとき、番匠(大規模な土木工事)がはじまり、九州年号の常色2年戊申(648年)には日本国に御巡礼される。)とある。つまり「孝徳天皇のとき前期難波宮造営がはじまり、大化4年(648年)に天皇が九州倭国から畿内日本国に行幸し、その途中に伊予に寄った。」と考えられるということとする。
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