自己改造の試み――金閣寺
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「三島由紀夫」の記事における「自己改造の試み――金閣寺」の解説
1955年(昭和30年)1月、奥只見ダムと須田貝ダムを背景にした「沈める滝」を『中央公論』に連載開始。同月には、少年時代の神風待望の心理とその〈奇蹟の到来〉の挫折感を重ね合わせた「海と夕焼」も『群像』に発表したが、三島の〈一生を貫く主題〉、〈切実な問題を秘めた〉この作品への反応や論評はなかった。三島は、もし当時この主題が理解されていれば、それ以降の自分の生き方は変っていたかもしれないと、のちに語っている。 同年9月、三島は、週刊読売のグラビアで取り上げられていた玉利齊(早稲田大学バーベルクラブ主将)の写真と、「誰でもこんな身体になれる」というコメントに惹かれ、早速、編集部に電話をかけて玉利を紹介してもらった。玉利が胸の筋肉をピクピク動かすのに驚いた三島は、さっそく自宅に玉利を招いて週3回のボディビル練習を始めた。この頃、映画『ゴジラの逆襲』が公開されて観ていたが、三島は自身を〈ゴジラの卵〉と喩えた。 同年11月、京都へ取材に行き、青年僧による金閣寺放火事件(1950年)を題材にした次回作の執筆に取りかかった三島は、『仮面の告白』から取り入れていた森鷗外的な硬質な文体をさらに鍛え上げ、「肉体改造」のみならず文体も練磨し〈自己改造〉を行なった。その双方を磨き上げ昇華した文体を駆使した「金閣寺」は、1956年(昭和31年)1月から『新潮』に連載開始された。 同月には、後楽園ジムのボディビル・コーチ鈴木智雄(元海兵の体操教官)に出会い、弟子入りし、3月頃に鈴木が自由が丘に開いたボディビルジムに通うことになった。三島は自由が丘で知り合った町内会の人に誘われ、8月には熊野神社の夏祭りで、生まれて初めて神輿をかつぎ陶酔感を味わった。 元々痩身で虚弱体質の三島であったが、弛まぬ鍛錬でのちに知られるほどの偉容を備えた体格となり、胃弱も治っていった。最初は10キロしか挙げられなかったベンチプレスも、約2年後に有楽町の産経ボディビルクラブに練習場所を変えた頃には60キロを挙上するまでに至り、その後は胸囲も1メートルを超え、生涯ボディビルは継続されていくことになる。 1月からの連載が終り、10月に『金閣寺』が新潮社から刊行された。傑作の呼び声高い作品として多数の評論家から高評価を受けた『金閣寺』は三島文学を象徴する代表作となり、第8回読売文学賞も受賞した。それまで三島に懐疑的だった評者からも認められ、三島は文壇の寵児となった。また、この年には、「日本空飛ぶ円盤研究会」に入会し、7月末の熱海ホテル滞在中に円盤観測に挑戦した。 9月には、鈴木智雄の紹介で、日大拳闘部の好意により、小島智雄の監督の下、ボクシングの練習も始めた。翌1957年(昭和32年)5月、小島智雄をスパーリング相手に練習を行っている三島を、前年の対談で知り合った石原慎太郎が訪ね、8ミリに撮影した。 これを観た三島は、〈石原慎太郎の八ミリシネにとつてもらひましたが、それをみていかに主観と客観には相違があるものかと非常に驚き、目下自信喪失の状態にあります〉と記し、以後ボクシングはもっぱら観戦の方に回り、スポーツ新聞に多くの観戦記を寄稿することになった。 この時期の三島は、『金閣寺』のほかにも、『永すぎた春』や『美徳のよろめき』などのベストセラー作品を発表し、そのタイトルが流行語になった。川端康成を論じた『永遠の旅人』も好評を博し、戯曲でも『白蟻の巣』が第2回岸田演劇賞を受賞、人気戯曲『鹿鳴館』も発表されるなど、旺盛な活動を見せ、戯曲集『近代能楽集』(「邯鄲」「綾の鼓」「卒塔婆小町」「葵上」「班女」を所収)も刊行された。 私生活でも、夏には軽井沢に出かけ、ホテルに泊まって原稿を書くほどの身分になり、乗馬クラブに通って避暑にやってくる人々に颯爽たる乗馬姿を披露して見せた。三島の乗馬姿は大いに注目され、その年の新聞・雑誌は彼の英姿で飾られることになった。また軽井沢では上流階級の子息・令嬢や夫人によるパーティーが開かれており、三島はそれらに顔を出して、吉田健一、岸田今日子、兼高かおる、鹿島三枝子(鹿島守之助の三女)、以前からの知り合いで『鏡子の家』のモデルとなる湯浅あつ子などと交遊した。さらに1954年(昭和29年)夏には、中村歌右衛門の楽屋で豊田貞子(赤坂の料亭の娘。『沈める滝』『橋づくし』のモデル)と知り合い、深い交際に発展した。それは三島の生涯において最も豊かな成功に輝いていた時期であったが、結局貞子とは破局し、1957年(昭和32年)5月、新派公演『金閣寺』を観た日を最後に別離した。 花嫁候補を探していた三島が、歌舞伎座で隣り合わせになる形で会い、銀座六丁目の小料理屋「井上」の2階で、独身時代の正田美智子とお見合いをしたとされるのも、1957年(昭和32年)頃である。なお同年3月15日、正田美智子が首席で卒業した聖心女子大学卒業式を三島は母と共に参観していたという。
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