筑後川四堰とは? わかりやすく解説

筑後川四堰

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/25 06:21 UTC 版)

筑後川」の記事における「筑後川四堰」の解説

17世紀後半から18世紀掛けて流域各藩では新田開発積極的に実施し年貢収穫高めようとした。筑後川ではこの時期「筑後川四堰」と呼ばれる固定堰相次いで建設された。完成した順番から山田堰大石堰・袋野堰・恵利堰(床島堰)の四つの堰を指す。 最初に手がけられたのは山田堰である。契機となったのは1662年寛文2年)から翌1663年寛文3年)に掛けて大旱魃であり、対策として山田堰とそこを取水元とする堀川用水1664年寛文4年)に開削されたが度重なる水害堀川用水取水口堆砂(たいさ)で埋め用水の便が悪くなってしまった。 そこで1722年享保7年取水口改良して水量によって自動開閉する水門への改造トンネル掘削によって用水供給安定化図った。これにより堀川用水供給対象農地新田開発進んだが、その恩恵受けない朝倉郡大庭村などでは旱魃被害続いていた。 そこで下大庭村庄屋であった古賀百工はこれらの地域にも供給するため新堀川用水開削福岡藩庁に申請福岡藩第六藩主黒田継高の命により福岡藩直轄事業として1759年宝暦9年)に山田堰大改修着手、高さを1メートル嵩上げ水門幅を倍に拡張することで取水量増加させ、従来用水恩恵を受けなかった地域にも供給された。この新堀川用水1764年宝暦14年)に5年歳月掛けて完成し150ヘクタール供給された。 さらに百工第二次山田堰大改修計画立てたが、これには下流朝倉郡長田農民達が反対した。長田地域湿地帯であり、用水引けば浸水被害拡大するというのが理由であった百工長田住民説得し同地域の湿地帯乾燥化させる「湿抜工事」を行うことで同意させ藩庁許可を得る。 そして1790年寛政2年)に山田堰大改修し、さらにその2年後には約束事であった長田湿抜工事」も着手されこちらは23年歳月掛けて1825年文政8年)に完成させた。なお、堀川用水には水田供給するための水車各所設けられたが、その最大のものとして朝倉三連水車がある。 続いて計画されたのが大石堰である。浮羽郡内の夏梅・清宗村高田村・今竹村などの筑後川南岸地域筑後川近くありながら水の便が悪い地域で、収穫乏し困窮した地域であった用水引いて収穫の向上と農民貧窮を救うため同地庄屋であった栗林次兵衛本松右衛門山下左衛門重富平左衛門猪山作之丞の五名大石用水開削計画立てた1663年大旱魃を機にその計画推進され浮羽郡奉行である高村権内許可申請行い同地統括する大庄屋であった田代左衛門添書き携え久留米藩許可申請提出した当初藩庁許可下りなかったが久留米藩普請奉行であった山村源太夫が5庄屋要請受けて現地視察行いその結果詳細な調査に基づく協議結果1664年山田堰とほぼ同時期に久留米藩直轄事業として久留米藩第三藩主有馬頼利家老丹羽頼母建設総指揮命じ建設開始された。まず取水口である大石水門生葉郡大石建設、幅3.6メートル長さ3.0キロメートル用水路建設。 翌1665年寛文5年)には水門増設水路幅を二倍拡張する工事が行われた。さらに1666年寛文6年)には筑後川支流である巨瀬川(こせがわ)に余った融通させる工事が行われた後、最後に同じ筑後川支流隈上川(くまのがみがわ)に融通させる工事1667年寛文7年)に行われ、既に完成していた隈上川長野堰との間で合理的な水運用を行うため大石堰が大石水門地点建設され1674年延宝2年)に完成した。これにより筑後川支流巨瀬川隈上川大石用水通じてつながり融通しあうことで効率的な水運用が図られることになり500ヘクタール農地恩恵浴した大石堰の完成刺激受けた浮羽郡28統括する大庄屋田代三左衛門重栄(しげひで)は長男である田代重仍(しげより)と共に袋野堰の建設計画した。「五庄屋の手大石用水完成したのだから、袋野の切り貫き完成できないはずはない」と意気込み1672年寛文12年久留米藩庁に工事願い申請し、藩の調査経て許可得た計画としては現在のうきは市夜明にあるの瀬(たつのせ)地点取水口設けて用水を引く計画であったが、この地点筑後川夜明峡谷地点断崖川岸迫り加えて大きく蛇行している区間だったため通常の用水建設では水路延長長くなるこのため重栄・重仍父子の瀬から全長1.3キロメートルに及ぶトンネル掘って出口であるくじ取場まで難工事の末1673年寛文13年)に袋野用水完成させた。だが用水完成後期待した水量確保できなかったことから今度用水取水口付近に堰を設けることにした。 これが袋野堰で1676年延宝4年)、堰の長さ120メートル、幅110メートル固定堰完成し450ヘクタールが潤された。なおこの袋野堰・用水は他の三堰とは異なり直轄事業ではなく田代父子私財投じて建設したのである最後に計画されたのが恵利堰(床島堰)である。御井郡御原郡の両郡もまた水の便が悪く筑後川何とかして利用したい流域住民考えていた。かねてより用水建設取水口地点候補として佐田川との合流点付近である床島地点が有望視されていたが、この地点急流水量多く加えて福岡藩久留米藩境界でもあり技術面政治面問題着工遅らせていた。 だが新田開発機運高まり同地庄屋であった高山六右衛門秋山新左衛門中垣清右衛門鹿毛左衛門1710年宝永7年5月御井郡総裁であった本荘主計本荘市父子用水開削必要性説いた本荘父子もこれに賛同し同郡28村庄屋連名以って請願書久留米藩提出した久留米藩第六藩主有馬則維久留米藩直轄事業として直ち進めるよう久留米藩普請奉行草野又六らに命じたが、対岸である福岡藩領・朝倉郡長田住民がこの計画猛反発した。 先の山田堰建設反対の時と同様、堰の建設により流れ込むことで浸水被害遭うというのが理由である。1711年宝永8年川越六之丞ら11庄屋久留米藩対し工事中止抗議書送り取水口である床島水門下流2.2キロメートル移転させることで一旦は決着したが、水運の便を図る舟通しを中曽地点に選定したところ、この地点が両藩境界未設地域であったことから藩境紛争発展した。 これに対し早期の堰完成を図るべく早田村庄屋であった丸林善左衛門長田地域住民に「中曽は早田村区域である」と説得したところ逆に住民達により拉致監禁されたうえ拷問を受け、三ヶ月もの間抑留された。困窮著し農民を救うため、あえて危険を冒し単身解決の途を探った善左衛門行為はやがて両岸住民同意を得、1712年正徳2年遂に完成。1,428ヘクタール新規開墾図れたほか両岸農民対等収穫挙げられるようになった。しかし善左衛門拷問により重傷負い体が不自由になり、死期早めてしまった。 このように筑後川四堰は庄屋主導行われた利水事業であり、その根底には困窮する農民を救うという思想があった。早田村庄屋丸林善左衛門みられる命がけ行動が藩を動かし現在に至るまで流域農業多大な恩恵与えている。 山田大石・恵利の三堰は現役稼働しているが、袋野堰については1954年昭和29年)に完成した夜明ダムによって水没し、現在はその姿を見ることは出来ない。袋野堰の代わりに同地点には袋野取水塔設けられ用水供給行っている。

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