筑後川四堰
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17世紀後半から18世紀に掛けて、流域各藩では新田開発を積極的に実施し年貢収穫を高めようとした。筑後川ではこの時期「筑後川四堰」と呼ばれる固定堰が相次いで建設された。完成した順番から山田堰・大石堰・袋野堰・恵利堰(床島堰)の四つの堰を指す。 最初に手がけられたのは山田堰である。契機となったのは1662年(寛文2年)から翌1663年(寛文3年)に掛けての大旱魃であり、対策として山田堰とそこを取水元とする堀川用水が1664年(寛文4年)に開削されたが度重なる水害は堀川用水の取水口を堆砂(たいさ)で埋め、用水の便が悪くなってしまった。 そこで1722年(享保7年)取水口を改良して水量によって自動開閉する水門への改造とトンネル掘削によって用水供給の安定化を図った。これにより堀川用水供給対象の農地は新田開発が進んだが、その恩恵を受けない朝倉郡下大庭村などでは旱魃の被害が続いていた。 そこで下大庭村庄屋であった古賀百工はこれらの地域にも水を供給するため新堀川用水の開削を福岡藩庁に申請。福岡藩第六代藩主・黒田継高の命により福岡藩直轄事業として1759年(宝暦9年)に山田堰大改修に着手、高さを1メートル嵩上げし水門幅を倍に拡張することで取水量を増加させ、従来用水の恩恵を受けなかった地域にも水が供給された。この新堀川用水は1764年(宝暦14年)に5年の歳月を掛けて完成し150ヘクタールに水が供給された。 さらに百工は第二次山田堰大改修計画を立てたが、これには下流の朝倉郡長田の農民達が反対した。長田地域は湿地帯であり、用水を引けば浸水被害が拡大するというのが理由であったが百工は長田の住民を説得し、同地域の湿地帯を乾燥化させる「湿抜工事」を行うことで同意させ藩庁の許可を得る。 そして1790年(寛政2年)に山田堰を大改修し、さらにその2年後には約束事項であった「長田湿抜工事」も着手されこちらは23年の歳月を掛けて1825年(文政8年)に完成させた。なお、堀川用水には水田に水を供給するための水車が各所に設けられたが、その最大のものとして朝倉三連水車がある。 続いて計画されたのが大石堰である。浮羽郡内の夏梅村・清宗村・高田村・今竹村・菅村などの筑後川南岸地域は筑後川が近くにありながら水の便が悪い地域で、収穫も乏しい困窮した地域であった。用水を引いて収穫の向上と農民の貧窮を救うため同地の庄屋であった栗林次兵衛・本松平右衛門・山下助左衛門・重富平左衛門・猪山作之丞の五名は大石用水開削計画を立てた。1663年の大旱魃を機にその計画は推進され、浮羽郡奉行である高村権内に許可申請を行い、同地を統括する大庄屋であった田代又左衛門の添書きを携え久留米藩に許可申請を提出した。 当初は藩庁の許可が下りなかったが久留米藩普請奉行であった山村源太夫が5庄屋の要請を受けて現地視察を行い、その結果詳細な調査に基づく協議の結果1664年、山田堰とほぼ同時期に久留米藩直轄事業として久留米藩第三代藩主・有馬頼利は家老・丹羽頼母に建設総指揮を命じ建設が開始された。まず取水口である大石水門を生葉郡大石に建設、幅3.6メートル、長さ3.0キロメートルの用水路を建設。 翌1665年(寛文5年)には水門の増設と水路幅を二倍に拡張する工事が行われた。さらに1666年(寛文6年)には筑後川の支流である巨瀬川(こせがわ)に余った水を融通させる工事が行われた後、最後に同じ筑後川支流の隈上川(くまのがみがわ)に水を融通させる工事が1667年(寛文7年)に行われ、既に完成していた隈上川の長野堰との間で合理的な水運用を行うため大石堰が大石水門地点に建設され、1674年(延宝2年)に完成した。これにより筑後川と支流の巨瀬川・隈上川が大石用水を通じてつながり、水を融通しあうことで効率的な水運用が図られることになり500ヘクタールの農地が恩恵に浴した。 大石堰の完成に刺激を受けた浮羽郡28村を統括する大庄屋・田代弥三左衛門重栄(しげひで)は長男である田代重仍(しげより)と共に袋野堰の建設を計画した。「五庄屋の手で大石用水が完成したのだから、袋野の切り貫きも完成できないはずはない」と意気込み、1672年(寛文12年)久留米藩庁に工事願いを申請し、藩の調査を経て許可を得た。計画としては現在のうきは市夜明にある獺の瀬(たつのせ)地点に取水口を設けて用水を引く計画であったが、この地点は筑後川の夜明峡谷地点で断崖が川岸に迫り、加えて大きく蛇行している区間だったため通常の用水建設では水路延長が長くなる。 このため重栄・重仍父子は獺の瀬から全長1.3キロメートルに及ぶトンネルを掘って出口であるくじ取場まで難工事の末1673年(寛文13年)に袋野用水を完成させた。だが用水完成後期待した水量が確保できなかったことから今度は用水取水口付近に堰を設けることにした。 これが袋野堰で1676年(延宝4年)、堰の長さ120メートル、幅110メートルの固定堰が完成し450ヘクタールが潤された。なおこの袋野堰・用水は他の三堰とは異なり藩直轄事業ではなく、田代父子が私財を投じて建設したものである。 最後に計画されたのが恵利堰(床島堰)である。御井郡・御原郡の両郡もまた水の便が悪く、筑後川の水を何とかして利用したいと流域住民は考えていた。かねてより用水建設の取水口地点候補として佐田川との合流点付近である床島地点が有望視されていたが、この地点は急流で水量も多く、加えて福岡藩・久留米藩の境界でもあり技術面と政治面の問題が着工を遅らせていた。 だが新田開発の機運が高まり同地の庄屋であった高山六右衛門・秋山新左衛門・中垣清右衛門・鹿毛甚左衛門は1710年(宝永7年)5月に御井郡総裁であった本荘主計・本荘市正父子に用水開削の必要性を説いた。本荘父子もこれに賛同し同郡28村庄屋の連名を以って請願書を久留米藩に提出した。久留米藩第六代藩主・有馬則維は久留米藩直轄事業として直ちに進めるよう久留米藩普請奉行・草野又六らに命じたが、対岸である福岡藩領・朝倉郡長田の住民がこの計画に猛反発した。 先の山田堰建設反対の時と同様、堰の建設により水が流れ込むことで浸水被害に遭うというのが理由である。1711年(宝永8年)川越六之丞ら11村の庄屋は久留米藩に対し工事中止の抗議書を送り、取水口である床島水門を下流2.2キロメートルに移転させることで一旦は決着したが、水運の便を図る舟通しを中曽地点に選定したところ、この地点が両藩境界未設定地域であったことから藩境紛争に発展した。 これに対し早期の堰完成を図るべく早田村庄屋であった丸林善左衛門が長田地域の住民に「中曽は早田村の区域である」と説得したところ逆に住民達により拉致監禁されたうえ拷問を受け、三ヶ月もの間抑留された。困窮著しい農民を救うため、あえて危険を冒し単身で解決の途を探った善左衛門の行為はやがて両岸住民の同意を得、1712年(正徳2年)遂に完成。1,428ヘクタールの新規開墾が図れたほか両岸の農民が対等の収穫を挙げられるようになった。しかし善左衛門は拷問により重傷を負い体が不自由になり、死期を早めてしまった。 このように筑後川四堰は庄屋主導で行われた利水事業であり、その根底には困窮する農民を救うという思想があった。早田村庄屋丸林善左衛門にみられる命がけの行動が藩を動かし、現在に至るまで流域の農業に多大な恩恵を与えている。 山田・大石・恵利の三堰は現役で稼働しているが、袋野堰については1954年(昭和29年)に完成した夜明ダムによって水没し、現在はその姿を見ることは出来ない。袋野堰の代わりに同地点には袋野取水塔が設けられ、用水供給を行っている。
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