利水事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/08/16 05:57 UTC 版)
秋葉ダムは本来水力発電専用のダムとして建設された。だが現在では佐久間ダム・船明ダムと共に遠州地域の水がめとしても利用されている。 三方ヶ原の戦いでも知られる三方原台地は極めて水の便が悪い地域であった。近くに天竜川や浜名湖といった豊富な水源があるにもかかわらず、高台まで水を供給する術がなかったことで慢性的な渇水に悩まされる地域であり、不毛の地であった。明治時代に入り江戸幕府滅亡後職を失った旗本などが新天地を求め三方原に移住、開墾を行ったが水の確保に難渋していた。当時天竜川下流域の治水に大きな功績を残した金原明善は1896年(明治28年)、天竜川より三方原に用水を引く構想を立てたが具体的な計画までには至らなかった。だが天竜川からの水供給はこの地に住む者の悲願でもあった。 戦後に入り農林省(現・農林水産省)は深刻な食糧不足を打開するために1948年(昭和23年)より「国営農業水利事業」に着手した。かんがい用のダムを建設して水源とし、用水路を建設して水供給を安定して図ることによって新規の農地開墾を促し、食糧生産を軌道に乗せることを目的とした事業である。静岡県では既に遠州東部地域において大井川を水源とする大井川用水の建設が着手されていたが、遠州西部地域においても豊富な水量を有する天竜川を活用した「国営三方原開拓建設事業」が着手され、天竜川を水源とした三方原用水の建設が計画された。その水がめについて検討の結果、当時電源開発が建設を進めていた佐久間ダムと秋葉ダムに水源を求めることになり、1954年の「天竜奥三河特定地域総合開発計画」の中で正式に三方原用水の水源として利用することが決定した。 秋葉ダムの完成後1960年(昭和35年)より三方原用水の建設が始まり、約10年の歳月を掛けて1970年(昭和45年)に完成した。同時期静岡県は三方原の農地整備を図るため「県営大規模圃場(ほじょう)整備事業」を1969年(昭和44年)に実施し耕土整備を行った。ダムの水は秋葉第二・第三発電所において利用された発電用水より取水し、全長22.3キロメートルの幹線水路から約5,479ヘクタールの農地に農業用水を供給する。これによってかつて不毛の地であった三方原台地は茶・メロンなどの一大産地へと変貌を遂げた。 三方原用水完成後の1967年(昭和42年)10月26日には西遠工業用水道事業が完成した。これは自動車産業など浜松市周辺の工業地域が拡大するに連れて工場を操業するための用水が不足していたことによる。この工業用水道事業の水源にも秋葉ダムは豊川用水と共に水源となり、秋葉湖に取水口を設けて日量241,000トンの水をホンダやスズキ、ヤマハ発動機などの工場に送っている。さらに東海道新幹線や東名高速道路の開通などで人口が急増する浜松市の上水道需要を賄うため、遠州広域水道事業が1989年4月1日より運用された。この水源については船明ダムと都田川ダム(都田川)に求めたが、取水口を西遠工業用水道と共有したことで間接的ながら秋葉ダムは浜松市の上水道需要にも一役買っている。
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