福井藩による治水・利水事業
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/27 13:48 UTC 版)
「九頭竜川」の記事における「福井藩による治水・利水事業」の解説
関ヶ原の戦いの戦功により越前北ノ庄68万石の太守となった結城秀康(徳川家康次男)は、重臣を要衝に配置し加賀前田氏の押さえとなった。秀康は北ノ庄を福井と改め、福井藩の藩祖となるが藩政確立の為の領内整備を行った。特に治水・利水においては家老・本多富正の功績が大きい。富正は家康の重臣・本多重次(作左衛門)の養子で秀康付きの家老となった人物である。 彼は福井城外堀への引水と城下の上水道・灌漑を目的に九頭竜川から日野川まで芝原用水を開削、日野川筋にも関ヶ鼻用水を開削して新田開発を促進した。また、九頭竜川本川に「元覚堤」、日野川に「昼夜堤」を建設して中世には放置同然であった治水にも力を注いだ。この他家老の一人今村盛次は十郷用水の公正な配水慣例を制定し、以後この慣例にしたがって十郷用水の水利権は履行された。 これ以降も洪水を起こす九頭竜川の治水は藩政として続き、1796年(寛政8年)には木部輪中が造成された。幕末、松平慶永(春嶽)は混乱期の中においても九頭竜川の治水計画を策定し、1869年(明治2年)より大規模な引堤に着手したが1871年(明治4年)の廃藩置県によって計画は頓挫した。
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