福井藩と越前騒動
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関ヶ原の戦い後、結城秀康は越前一国68万石の大名となる。慶長6年(1601年)2月、北ノ庄城(のちの福井城)受け取りのために加藤康寛と供に富正が派遣され、翌3月には早くも富正名義にて開墾、用水整備などの指示が出ている。7月に秀康が北の庄城入城し、松平氏による福井藩が開始された。 詳細は「#内政」を参照 慶長11年(1606年)に主君の秀康が死去すると、家中では追腹を行う者が出る中、富正は病気の秀康の名代という形式で駿府城改築の指揮を執っていたため追腹が行えずにいた。追腹が続く状況を危惧した江戸幕府により、2代将軍・徳川秀忠から特使の近藤季用が派遣された。近藤により大御所・家康や幕閣である本多正純署名の書状がもたらされ、これにより今村盛次、片山吉次らその他複数の福井藩の重臣、特に富正の殉死(追腹)は固く禁じられたため、富正は剃髪するにとどまった。また幕府の直命により富正は引き続き福井藩の執政、秀康の子の松平忠直の補佐を勤めることとなった。慶長12年(1607年)、本多家は本藩とは別に、直々に江戸に上屋敷と下屋敷を賜ったが「上屋敷だけで充分」として下屋敷を返上している。 秀康の葬儀や引継ぎ処理を行ったのち、忠直と同行して江戸の徳川秀忠に拝謁した。慶長16年(1611年)、従五位下に叙された。この年、忠直に秀忠の娘の勝姫が嫁ぐが、幼少の勝姫の福井への道中、富正の越前府中城で休憩および化粧(鉄漿の式。女子の成人式)を行ってのち、福井へ向かった。 慶長17年(1612年)、藩内に重臣間の対立によって生じたお家騒動である越前騒動(久世騒動)が起こった。二派に割れた藩士の一派の代表として江戸に呼ばれ、家康直々の裁きを受けることとなった。裁判当初は富正が不利だったが、富正の訴えを容れた家康直々の裁断にて、他派の今村盛次らは敗訴し追放処分となり、富正方が勝利した。この後、家康に呼び出され直々に厳しく叱責されると共に、その忠義を賞賛され、「幼少の忠直を今後とも補佐せよ」として改めて国中仕置を命じられた。慶長18年(1613年)、幕府から福井藩に対して新しい附家老として本多成重が配された。この人事は富正の推薦とも伝わる。また、富正には子がなかったため、成重の子を養子(本多志摩)とした。 詳細は「越前騒動」を参照
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