福井藩と越前騒動とは? わかりやすく解説

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福井藩と越前騒動

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/12/29 00:07 UTC 版)

本多富正」の記事における「福井藩と越前騒動」の解説

関ヶ原の戦い後結城秀康越前一国68万石大名となる。慶長6年1601年2月北ノ庄城(のちの福井城受け取りのために加藤康寛供に富正が派遣され、翌3月には早くも正名義にて開墾用水整備などの指示出ている。7月に秀康が北の庄入城し松平氏による福井藩開始された。 詳細は「#内政」を参照 慶長11年1606年)に主君の秀康が死去すると、家中では追腹を行う者が出る中、富正は病気の秀康の名代という形式駿府城改築指揮を執っていたため追腹が行えずにいた。追腹が続く状況危惧した江戸幕府により、2代将軍徳川秀忠から特使近藤季用派遣された。近藤により大御所家康幕閣である本多正純署名書状もたらされ、これにより今村盛次、片山吉次らその他複数福井藩重臣、特に富正の殉死追腹)は固く禁じられたため、富正は剃髪するとどまった。また幕府の直命により富正は引き続き福井藩執政、秀康の子松平忠直補佐勤めることとなった慶長12年1607年)、本多家は本藩とは別に直々に江戸上屋敷下屋敷賜ったが「上屋敷だけで充分」として下屋敷返上している。 秀康の葬儀引継ぎ処理を行ったのち、忠直同行して江戸徳川秀忠拝謁した慶長16年1611年)、従五位下叙された。この年忠直秀忠の娘の勝姫嫁ぐが、幼少勝姫福井への道中、富正の越前府中城休憩および化粧鉄漿の式。女子成人式)を行ってのち、福井向かった慶長17年1612年)、藩内に重臣間の対立によって生じたお家騒動である越前騒動久世騒動)が起こった。二派に割れた藩士一派代表として江戸呼ばれ家康直々裁きを受けることとなった裁判当初は富正が不利だったが、富正の訴えを容れた家康直々裁断にて、他派今村盛次らは敗訴し追放処分となり、富正方勝利したこの後家康呼び出され直々に厳しく叱責されと共に、その忠義賞賛され、「幼少忠直今後とも補佐せよ」として改め国中仕置命じられた。慶長18年1613年)、幕府から福井藩に対して新し附家老として本多成重配された。この人事は富正の推薦とも伝わる。また、正には子がなかったため、成重の子養子本多志摩)とした。 詳細は「越前騒動」を参照

※この「福井藩と越前騒動」の解説は、「本多富正」の解説の一部です。
「福井藩と越前騒動」を含む「本多富正」の記事については、「本多富正」の概要を参照ください。

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