筑後川合戦とは? わかりやすく解説

筑後川合戦

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/19 05:45 UTC 版)

菊池武光」の記事における「筑後川合戦」の解説

だが、外来勢力であった九州探題没落すると、それまで南軍服していた少弐氏大友氏らは再び反南軍勢力転ずることとなった。これにより正平14年/延文4年1359年3月には、大友氏時反攻を受け敗北喫した。しかし勢力盛り返して氏時を破り7月には懐良親王擁して南軍総力挙げて筑後国進軍し少弐頼尚に対して決戦挑んだ南軍高良山に陣を敷き対す少弐軍は筑後川右岸味坂に軍を進め、ここに史上名高い筑後川の戦い大原合戦大保合戦)の幕が切って落とされた。 この合戦菊池軍4少弐軍は6兵力擁した伝わり、まさに九州合戦史上最大戦いとなった。この合戦では、7月19日菊池勢が筑後川渡河したのを機として、少弐勢が大保原に退いて以降一進一退の攻防続いたが、8月7日両軍主力激突する激戦となった。この日の激戦は、南軍総帥である懐良親王が3ヶ所の深手を負うほどであったが、武光をはじめとした南軍諸将奮戦もあってこれに勝利した少弐勢は総大将・頼尚の子息・少弐直資戦死したのをはじめ、2万上の死傷者出し大宰府敗走一方菊池勢も武光の甥である菊池武明や一族の赤星武貫らが戦死し、こちらも多く死傷者出したため、これを追撃する余力無かったといわれる。なお、この戦いの後に、傷ついた武光が己の太刀についた血糊小川洗った事から「太刀洗」(現福岡県三井郡大刀洗町)の故事生まれたと伝わる。この他筑後川古戦場付近には「大将塚」、「千人塚」、「五万騎塚」などこの時の合戦由来する地名数多く残されている。

※この「筑後川合戦」の解説は、「菊池武光」の解説の一部です。
「筑後川合戦」を含む「菊池武光」の記事については、「菊池武光」の概要を参照ください。

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