筑後川合戦
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だが、外来勢力であった九州探題が没落すると、それまで南軍に服していた少弐氏・大友氏らは再び反南軍勢力に転ずることとなった。これにより正平14年/延文4年(1359年)3月には、大友氏時の反攻を受け敗北を喫した。しかし勢力を盛り返して氏時を破り、7月には懐良親王を擁して南軍の総力を挙げて筑後国に進軍し、少弐頼尚に対して決戦を挑んだ。南軍は高良山に陣を敷き、対する少弐軍は筑後川右岸の味坂に軍を進め、ここに史上名高い筑後川の戦い(大原合戦・大保原合戦)の幕が切って落とされた。 この合戦は菊池軍4万、少弐軍は6万の兵力を擁したと伝わり、まさに九州の合戦史上最大の戦いとなった。この合戦では、7月19日に菊池勢が筑後川を渡河したのを機として、少弐勢が大保原に退いて以降一進一退の攻防が続いたが、8月7日に両軍の主力が激突する大激戦となった。この日の激戦は、南軍の総帥である懐良親王が3ヶ所の深手を負うほどであったが、武光をはじめとした南軍諸将の奮戦もあってこれに勝利した。少弐勢は総大将・頼尚の子息・少弐直資が戦死したのをはじめ、2万以上の死傷者を出し大宰府へ敗走、一方の菊池勢も武光の甥である菊池武明や一族の赤星武貫らが戦死し、こちらも多くの死傷者を出したため、これを追撃する余力は無かったといわれる。なお、この戦いの後に、傷ついた武光が己の太刀についた血糊を小川で洗った事から「太刀洗」(現福岡県三井郡大刀洗町)の故事が生まれたと伝わる。この他、筑後川古戦場付近には「大将塚」、「千人塚」、「五万騎塚」などこの時の合戦に由来する地名が数多く残されている。
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