礼拝、教義および伝統
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 06:16 UTC 版)
今日のメノナイトは広い範囲の礼拝、教義および伝統がある。以下は北アメリカで見られる主流メノナイトの様式である。世界中のメノナイトを具体的に研究するところまでは行っていないが、複雑なメノナイトの分派の代表例として示す。 中庸メノナイトには最大の会派であるメノナイト・ブレザレンとメノナイト教会が含まれる。礼拝や実践の形においては、プロテスタントの宗派と大きな違いはない。特別の服装形態はないし、技術を使うことに制限もない。礼拝の様式は異なる宗派の間で大きく変化している。正式な礼拝のきまりは無い。典型的なものは賛美歌の歌唱、聖句の朗読、祈りと説教である。聖歌隊を好む教会もある。また電子楽器で当世風のキリスト教音楽を演奏する場合もある。メノナイトの宗派は独立経営であり、独自の牧師を指名する。牧師が宗派から承認される必要はないし、他の宗派から牧師が指名されることもある。会員の数に応じて少額の献金が行われ、会報の発行や他の宗派、他の国との交流のための機能を果たすために使われる。中庸メノナイトの特徴有る性格は規則よりも強調するものに傾いている。平和の強調、社会と奉仕の強調である。しかし、会員が特別の社会で生活するのではなく、世界に対する「塩と光」として一般社会に参加している(マタイ伝5章13節、14節)。メノ・シモンズの教義の主要な要素は保たれているが、中庸な形である。破門は滅多に行われず、行われたとしても社会が固いきずなに結ばれている宗派よりも効果が少ない。破門は起こる可能性がある。第二次世界大戦で軍隊に従軍した会員に対してメノナイト・ブレザレンが行ったのが顕著な例である。軍隊に従軍することは一般に認められていないが、法律専門家や法執行機関に従事することは認められる。地元や海外での奉仕活動と広い社会の支援は奨励されている。メノナイト中央委員会が海外支援の指導に当たっている。1万の村(Ten Thousand Villages)はフェアトレード商品の再販売業者として活動している。 改革メノナイト教会は、アメリカ合衆国とカナダの会員と共に、当初の北アメリカ・メノナイト本体の第1区分を代表している。著述家のステファン・スコットによって「古いしきたりの第一管理人」と呼ばれるように、改革メノナイト教会は19世紀初頭に造られた。改革メノナイトは自分達をメノ・シモンズの教義と聖書の教えの忠実な追随者と見ている。教会の規則は無いが聖書を唯一の指導書として依存している。礼拝の全ての形態からの厳格な分離を強調し、18世紀のメノナイトの様式を保存する保守的で質素な服装をしている。しかし、子供達にメノナイトの信仰を強制することを禁じ、公営の学校に行くことを許し、また自動車の利用も認めてきた。ミルトン・S・ハーシーの母の教会であることでも有名である。また、指導層における不誠実と不統一と見えたことに対して反乱を起こしたペンシルベニア州の農夫、ロバート・ベアの長く苦い破門でも有名である。 ホールドマン・メノナイトは1859年の分裂の時に創られた。キリストの中の神の教会は世界に1万9千人の会員がいる。その創設者に因んでホールドマン・メノナイトとして知られている。福音による改心を強調し、また厳しい戒律と破門の実行がある。真実は一つという教義と破門した会員に対して厳格に回避するために、他のメノナイト宗派とは分かれたままである。 古い秩序メノナイトには多くの独特な集団がある。他の者が車を使い英語を話す傍らで、輸送用に馬車を用いたり、ドイツ語を話したりしている。多くの古い秩序の集団が共有するものは、保守的な教義、服装および伝統であり、19世紀と20世紀初期の分裂に起源がある。政治など「世界の罪」と呼ぶものへの参加を拒んでいる。多くの古い秩序の集団はメノナイトが運営する学校で子供達を教育している。 馬車を使う古い秩序メノナイトは、1872年に始まり1901年に終わった一連の古い秩序分裂から出てきた。この時、保守的なメノナイトは19世紀アメリカの復活主義の影響がメノナイトの礼拝に与えた急激な変化と戦った。多くの馬車を使う古い秩序メノナイトは農業用にトラクターを用いることは容認する。ただし、道路の輸送用にトラクターが使われないように鉄の車輪に固執している。スタウファーあるいはパイク・メノナイトと同様、世界からの分離、破門および質素な身なりを強調する。スタウファーあるいはパイクのメノナイトと違うのは、破門の形が厳しくないということである。これは破門が分離ではないということであり、それ故に家庭の食卓から外されるわけでもなく、配偶者と分離されることでも仕事から切り離されることでもないからである。 自動車を使う古い秩序メノナイトも1872年から1901年の分裂から生じた。彼らは1900年代初期に袂を分かった馬車を使う古い秩序メノナイトと同じ集会所を分け合うこともあるし、ほとんど同じ「古い秩序」の礼拝形式に固執してもいる。この集団は1927年に自動車を使い始めた。ただし、車は質素でなければならないので黒く塗られた。自動車を使う古い秩序メノナイトの中で最大の集団は、クロム鍍金のバンパーを黒く塗るので、「黒のバンパー」メノナイトと呼ばれている。 スタウファー・メノナイトあるいはパイク・メノナイトは馬車を使うメノナイトの最初で最も保守的な形態を代表している。1845年に子供の躾け方と配偶者の虐待についてメノナイト教会の数人の会員による論争の後で設立された。その直ぐ後にもさらに分裂を始めた。今日この集団は、アーミッシュを除けばスイス・メノナイトで最も保守的なものとなっている。「世界」からの分離を強調し、「背教者や分離した会員からの厳格な分離」に拘り、車や技術を禁ずるか制限し、質素な身なりをしている。現在では、上述の自動車を使う古い秩序メノナイト集団の一部と考えられている。 保守的メノナイトは幾分保守的な服装を続け、テレビやラジオを遠ざけ、他の技術は慎重に受け入れるメノナイトと考えられている。単一の集団ではなく、東ペンシルベニア・メノナイト教会のように、様々な独立した会派および集団に分かれている。19世紀第4四半期の古い秩序の分裂にあった急激な変化にも拘わらず、アメリカとカナダのメノナイトは、新約聖書の文字通りの解釈に基づく核となる伝統的な信仰と共に、20世紀初めの質素な習慣を維持している。しかし、20世紀前半に始まったアメリカとカナダに置ける保守派と急進派の指導者間の不一致が今も続いている。第二次世界大戦の後、メノナイト教会が歴史的な伝統から遊離していることに対する反動として、保守的な運動が分散していた分離主義者集団の中から持ち上がった。「質素」は、伝統的な信仰と習慣に対する批判が1950年代と1960年代に上がったとき、時代遅れとなった。急進的な集団から最初に保守派集団が退いたときが1950年代であった。この引き籠もりはメノナイトの分裂と急進的なアーミッシュ集団との組み合わせから起こった保守系運動の中で今日も続いている。他の保守的メノナイト集団は19世紀後半にワイスラー・メノナイトと同様に古い秩序のアーミッシュから分かれた元アーミッシュ=メノナイト教会から下ってきたものである。アーミッシュをより最近に離れてきた者からできた保守的メノナイト教会もある。 進歩的メノナイト教会はホモセクシャルの会員が教会員として礼拝することを許し、その結果中庸の集団の会員から破門されてきたものである。ペンシルベニア州ジャーマンタウンのジャーマンタウン・メノナイト教会がこのような進歩的メノナイト教会の一例である。
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