メノナイトの分裂
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アメリカに移民する前に、ヨーロッパのメノナイトはオランダにいるものと、スイス=ドイツにいるものとで立場が分かれていた。しかしオランダとスイス双方の集団は、オランダの集団を率いたメノ・シモンズの名前に因んだメノナイトを使った。1683年、オランダ・メノナイトの一部がアメリカへの移民を始め、1707年にはスイス=ドイツ・メノナイトの大きな集団が続いた。2世紀後の1870年代、プロイセン王国とロシア帝国に定着していたかなり多くのオランダ・メノナイトが、アメリカ合衆国とカナダに移民し、ロシア・メノナイトと呼ばれるようになった。 アメリカへの移民後、多くの初期メノナイトが北アメリカ・メノナイト教会の本体から離れ、独自の特徴有る教会を創設した。1785年に始まった正統派改革メノナイト教会は今日でも続いている。これら教会の多くは神学、原理や教会の規律に関する根の深い意見の違いに対応して作られており、メノナイトの親交の内外で進化が進んだ。「現代の」教会の多くは伝統的なメノナイトの教義を捨てた集団から引き継がれたものである。今日、メノナイトの原理を伝統的な解釈に基づいている集団はこれを捨てた集団よりも速く増加しつつある。しかし、中庸な会派は数では遙かに勝っており、着実に成長を続けている。 この分裂の歴史は今日存在するメノナイトの顕著な会派を作るときに影響を与えた。今日でも一つの集団として続く会派はメノナイト信仰の独自の見解を主張し、親の会派や教会から分かれ、時には穏和なあるいは厳しい社会的回避を使って他のメノナイト集団に対する不満を示している。最近広く報告された例では、フランコニア・カンファランス、後にはメノナイト教会USAから、LGBTの人を教会員に迎えたという理由で、フィラデルフィアのジャーマンタウン・メノナイト教会を除名した。 ドイツ=ロシア・メノナイトは、オスマン帝国との戦争の結果黒海の北の領土を獲得したロシアのエカチェリーナ2世によって、大きく影響された。エカチェリーナ2世はプロイセンに住むメノナイトを、信教の自由と兵役免除と引き替えにロシア・ステップの冷たく固い土壌で農業を行うよう招いた。メノナイトの農夫は何年もかけて耕作に成功した。20世紀の初めまでに農耕地を大規模に所有する者や都市の産業を興して成功した者もいた。1917年のロシア革命とロシア内戦 (1917-1921)の後、これら全ての農地(その所有者はクラーク、富農と呼ばれた)は没収された。没収だけでなく、内戦の間はボリシェヴィキの手によってひどい迫害を受けた。戦後、宗教に従うことを表明した人々は多くの場合投獄された。このことがアメリカ(アメリカ合衆国、カナダおよびパラグアイ)に向けてのロシア・メノナイトの移民の波ということになった。 1941年にドイツ軍がソ連に侵攻した(独ソ戦のバルバロッサ作戦)とき、メノナイト社会の多くの者がドイツ軍を多くの苦しみを味わわされた共産党政権からの解放者と見なした。戦争の行方が変わると、多くのメノナイトが撤退するドイツ軍とともにドイツに逃げ、ドイツ国民として受け入れられた。第二次世界大戦の終戦後、ロシアに残っていたメノナイトは、移民の道を選ぶか、あるいは(ドイツ人と「集団で協力した」と見られていたために)シベリアやカザフスタンに強制移住させられた。またグラグ(強制収容所)に送られた者も多かった。さらに東部(ロシア西部ではない)に住んでいたドイツ=ロシア・メノナイトは、ドイツ軍の侵略の前にシベリアに送られており、強制労働に就かせられる者もいた。1990年代ロシア政府はこれらの人々に移民の機会を与えた。ドイツにおけるロシアのメノナイト移民の数は、1898年以前にドイツに住んでいたメノナイトの数の3倍にも達した。
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