無着成恭との交流
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1947年4月、山形師範学校3年であった無着成恭が教えを乞いたいと山形新聞社編集室の須藤を訪れたことに2人の交流は始まる。そして無着が編集委員を務める師範学校創立70周年記念文芸誌『明窓』を編纂する際には、須藤に編集責任者に就任してもらい、原稿の整理の仕方、編集の技術、さらには印刷や製本技法のなどの術を貪欲に吸収した。この経験がのちに無着が発行する学級文集『きかんしゃ』に大いに活かされた。 1948年、山形師範を卒業した無着は南村山郡山元村(現:上山市山元)の山元中学校教諭として着任する。お仕着せの教科書に頼らず、子供たちの心の動きや目の輝きを敏感に受けとめ、その動きにしたがって授業をすすめる無着流のやり方を進めるが、読み書きどころか満足に計算すら出来ない教え子の姿に途方に暮れ、須藤の所に相談に出向くと「綴方でも書かせてみろ」とのアドバイスを受けた。この一言が『きかんしゃ』が産み出される端緒となった。また須藤は無着と共に山元中学の教壇に立ち、直接指導することを厭わなかった。そして無着はたとえ文章は稚拙でも構わない。山村の生活が浮きぼりにされた作品をつくれば、教室の共通の話題になるだろう。との思いを込め、『きかんしゃ』第一号は1949年7月に上梓された。この後通算16号まで発行された『きかんしゃ』14号までを底本に、それらから詩や作文さらに調査レポートが抜粋され、1951年3月、青銅社から『山びこ学校』が発売されるや、当時としては異例の2年間で12万部越えるベストセラーとなる。同年4月には山びこ学校を映画化しようとの話が持ち上がり、構想の具体化が進められるが資金難に陥ってしまう。そこで須藤が山形県や山形県教組を駆けずり回り、映画製作の機運を盛り上げた。そうした状況から、県当局としても山びこ学校の世評がそこまで高まったのだから支援しようとの判断に至り、県の斡旋で荘内銀行が600万円を山形県学校生活協同組合に融資し、それを映画製作に当たる八木プロダクションが無担保で借りうけるとの方途が編み出され、融資金600万円は八木プロの製作資金として活用された。また製作資金に充てるため募金活動や、日教組による組合員10円カンパも実施された。 『山びこ学校』は、戦後民主主義教育の金字塔とまで謳われたがその内容は、村の貧しさや因襲を赤裸々に綴ったものであった為、地元では好意的の受け止める人は少なく、大半は冷やかな視線を送っていた。加えて次第に無着のスタンドプレイが目立つようになり、1952年10月1日実施された第25回衆議院議員総選挙において、県第1区で社会党左派から出馬しトップ当選した元県教組委員長の西村力弥の選挙戦の最中には、無着は支援のため選挙区を巡り歩いた。この行動は村の古老らに無着を「アカ」との認識を決定づけてしまう。さらに1953年7月、西村や国分一太郎の強い推薦で現場の教師では唯一人、無着は羽仁五郎らとともにウィーンで開催された世界教育会議に出席するが、羽仁から「君のような若者こそ東欧を見るべきだ」との勧めの従い、帰途、ソ連に入国しモスクワ放送に出演する暴挙に及ぶ。これによって無着は帰国後、県教育庁から呼び出しを受け戒告処分を科される。さらに村の教育委員会からの総意として引導をわたされ、山元中学を辞すことになる。 1954年4月、無着は実家である沢泉寺の住職を拝命していたため、仏教や寺に関する見聞を深めることを名目に駒澤大学仏教学部3年に編入するが、次第に寺に戻っても葬式坊主で終わってしまうのではないか思いはじめ、檀家らの猛反発を受けながらも、1956年、旧知の寒川道夫の引きによって明星学園に就職する。その後教務の傍ら、TBSラジオの番組司会に抜擢されたほか、同局の看板番組であった全国こども電話相談室では質問者との当意即妙なやり取りで人気を博し、いわゆる教育タレントの走りのような存在となる。しかし学園校長であった照井猪一郎の死去後、園内に路線対立が起こり、教頭であった無着はそれに巻き込まれ、自身の主導によって新学園設立を画するが、実現に至らず結局27年務めた明星学園を去ることになる。 須藤はこうした愛弟子の生き様を「あの男にはどうもプロデューサーが必要のようだ。野放図な人生観だから、ゆきずまるとパッと飛び立ってしまう。だから、そのあと村のサークルが目標を失って、崩れたということはいえるかもしれない。特に人一倍かしこい藤三郎(佐藤藤三郎)君には、そのあと"山びこ"の全責任がかかり、たいへんな苦労をさせてしまうことになった。無着はたしかに子供たちに大きな夢を与えた。しかし、僕にしても無着にしても、結局は農業というものがわからなかった。それが彼を山元村から去らせる最大の理由だった」とまわりに明かしていたほか、無着はそのうちジャーナリズムから骨の髄までしゃぶられて、ポイと捨てられるだろう。そういう評もずいぶん聞かされた。それもあながち的はずれではないかも知れない。しかし「山びこ学校」が提起しているのは、自己喪失症的な日本に対しての、また感動を失っている日本の教育界に対しての、根源的な問いである。もし、無着が孤立するようなことがあるならば、それは無着一人の悲劇には終わらず、日本の教育界そのものの悲劇になろうとも記していた。
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