無着成恭との交流とは? わかりやすく解説

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無着成恭との交流

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/02/08 03:57 UTC 版)

須藤克三」の記事における「無着成恭との交流」の解説

1947年4月山形師範学校3年であった無着成恭教え乞いたいと山形新聞編集室の須藤訪れたことに2人交流は始まる。そして無着編集委員務め師範学校創立70周年記念文芸誌明窓』を編纂する際には、須藤編集責任者就任してもらい、原稿整理仕方編集技術さらには印刷製本技法のなどの術を貪欲に吸収した。この経験がのちに無着発行する学級文集きかんしゃ』に大い活かされた。 1948年山形師範卒業した無着南村山郡山元村(現:上山市山元)の山元中学校教諭として着任するお仕着せ教科書頼らず子供たちの心の動きや目の輝き敏感に受けとめ、その動きにしたがって授業をすすめる無着流のやり方進めるが、読み書きどころか満足に計算すら出来ない教え子の姿に途方に暮れ須藤の所に相談出向くと「綴方でも書かせてみろ」とのアドバイス受けた。この一言が『きかんしゃ』が産み出される端緒となった。また須藤無着と共に山元中学教壇に立ち、直接指導することを厭わなかった。そして無着はたとえ文章稚拙でも構わない山村の生活が浮きぼりにされた作品つくれば教室の共通の話題になるだろう。との思い込め、『きかんしゃ第一号は1949年7月上梓された。この後通算16号まで発行された『きかんしゃ14号までを底本に、それらから詩や作文さらに調査レポート抜粋され1951年3月青銅社から『山びこ学校』が発売されるや、当時としては異例2年間で12越えベストセラーとなる。同年4月には山びこ学校映画化しようとの話が持ち上がり構想の具体化進められる資金難に陥ってしまう。そこで須藤山形県山形県教組駆けず回り映画製作機運盛り上げたそうした状況から、県当局としても山びこ学校世評そこまで高まったのだから支援しようとの判断至り、県の斡旋荘内銀行600万円山形県学校生活協同組合融資し、それを映画製作に当たる八木プロダクション無担保借りうけるとの方途編み出され融資600万円八木プロの製作資金として活用された。また製作資金充てるため募金活動や、日教組による組合員10円カンパ実施された。 『山びこ学校』は、戦後民主主義教育金字塔とまで謳われたその内容は、貧しさ因襲赤裸々綴ったものであった為、地元では好意的受け止める人は少なく大半冷やかな視線送っていた。加えて次第無着スタンドプレイが目立つようになり、1952年10月1日実施され第25回衆議院議員総選挙において、県第1区社会党左派から出馬しトップ当選した元県教組委員長西村力弥選挙戦最中には、無着支援のため選挙区巡り歩いた。この行動古老らに無着を「アカ」との認識決定づけてしまう。さらに1953年7月西村国分一太郎の強い推薦現場教師では唯一人無着羽仁五郎とともにウィーン開催され世界教育会議に出席するが、羽仁から「君のような若者こそ東欧見るべきだ」との勧め従い帰途ソ連入国しモスクワ放送出演する暴挙に及ぶ。これによって無着帰国後、県教育庁から呼び出しを受け戒告処分科される。さらに教育委員会からの総意として引導わたされ山元中学辞すことになる。 1954年4月無着実家である沢泉寺の住職拝命していたため、仏教や寺に関する見聞深めることを名目駒澤大学仏教学部3年編入するが、次第に寺に戻って葬式坊主終わってしまうのではないか思いはじめ、檀家らの猛反発を受けながらも、1956年旧知寒川道夫の引きによって明星学園就職するその後教務傍らTBSラジオ番組司会抜擢されたほか、同局看板番組であった全国こども電話相談室では質問者との当意即妙やり取り人気博しいわゆる教育タレント走りのような存在となる。しかし学園校長であった照井猪一郎の死去後園内路線対立起こり教頭であった無着はそれに巻き込まれ自身主導によって新学設立画するが、実現至らず結局27年務めた明星学園を去ることになる。 須藤はこうした愛弟子生き様を「あの男にはどうもプロデューサーが必要のようだ野放図人生観だから、ゆきずまるとパッと飛び立ってしまう。だから、そのあとサークル目標失って崩れたということはいえるかもしれない。特に人一倍かしこい藤三郎(佐藤藤三郎君には、そのあと"山びこ"の全責任がかかり、たいへんな苦労をさせてしまうことになった無着たしかに子供たち大きな夢与えた。しかし、僕にしても無着にしても結局は農業というものがわからなかった。それが彼を山元村から去らせる最大理由だった」とまわりに明かしていたほか、無着そのうちジャーナリズムから骨の髄までしゃぶられて、ポイと捨てられるだろう。そういう評もずいぶん聞かされた。それもあながち的はずれではないか知れない。しかし「山びこ学校」が提起しているのは、自己喪失症的な日本に対しての、また感動失っている日本の教育に対しての、根源的な問いである。もし、無着孤立するようなことがあるならば、それは無着一人悲劇には終わらず日本の教育そのもの悲劇になろうとも記していた。

※この「無着成恭との交流」の解説は、「須藤克三」の解説の一部です。
「無着成恭との交流」を含む「須藤克三」の記事については、「須藤克三」の概要を参照ください。

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