栖了院
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| 栖了院 | |
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| 所在地 | 愛知県田原市福江町上紺屋瀬古7-1 |
| 位置 | 北緯34度37分41.25秒 東経137度6分22.87秒 / 北緯34.6281250度 東経137.1063528度座標: 北緯34度37分41.25秒 東経137度6分22.87秒 / 北緯34.6281250度 東経137.1063528度 |
| 山号 | 間宮山 |
| 宗派 | 浄土宗 |
| 本尊 | 阿弥陀如来像 |
| 創建年 | 永禄2年(1559年) |
| 正式名 | 間宮山栖了院 |
| 法人番号 | 6180305003096 |
栖了院(せいりょういん)は、愛知県田原市に存在する浄土宗の寺院。
沿革
1559年(永禄2年)、領主であった間宮直綱を開創として、間宮山金殿寺栖了院と称する[1]。
享保年間に領主の戸田淡路守(大垣新田藩/野村藩参照)[注釈 1]が檀徒と共に本堂を再建し、昭和に入ってから修理を行い、位牌堂を改築して現在に至る。
境内には、移築された観音堂のほか、浄土宗の開祖である法然上人の没後800年事業として建立された庫裏、納骨霊塔、東日本大震災による慰霊塔が建っている[2]。寺宝として、1736年(元文2年)に莫取軒原常良が執筆した『畠村観音記』、並びに円空仏が伝わっている[3]。
間宮家と戸田家
間宮家の菩提寺である。
渥美の間宮氏は、伊豆国田方郡間宮(現在の静岡県田方郡函南町間宮)を名字の地とする近江源氏(佐々木氏)の支流であり、小田原北条家に仕えた間宮氏(間宮康俊ら)と同族とされる[4]。間宮直綱の祖父「豊前守重綱」は北条家に仕えたが、父「兵庫頭正信」は今川家に仕えた[4]。直綱は永禄6年(1563年)に今川家を去って徳川家康に従い、天正6年(1578年)に没して栖了院に葬られた[5]。直綱のあと広綱―之等と続き、之等は元和5年(1619年)に退隠した[6]。なお、之等の子の正等、之等の弟である正照は、それぞれ尾張藩に仕えた。
間宮之等の娘の夫が旗本戸田氏経(大垣藩主戸田氏鉄の次男。戸田氏は渥美に起源を有する一族である)で、氏経は之等の領地を譲り受けたとされ[6]、以後この地は幕末まで氏経の立てた家(戸田淡路守家)の領地であった。戸田淡路守家は、3代目の戸田氏成の時に本藩である大垣藩から新田分の分与を受け、1万石の大名となった(大垣新田藩)。戸田淡路守家は当地に畠村陣屋を構え(間宮氏の屋敷を引き継いだものともされる)、領地を治めた。当寺には大垣新田藩(野村藩)最後の藩主・戸田氏良の位牌が祀られている。
ギャラリー
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本堂
脚注
注釈
出典
参考文献
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