戸田氏良
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![]() 戸田氏良 | |
時代 | 江戸時代後期(幕末) - 明治時代 |
生誕 | 天保10年5月28日(1839年7月8日)[1] |
死没 | 明治25年(1892年)3月16日 |
改名 | 柳次郎・鈴次郎(幼名)、氏良 |
墓所 | 東京都文京区向丘の蓮光寺 |
官位 | 従五位下、淡路守、正五位、子爵 |
幕府 | 江戸幕府 |
主君 | 徳川家定→家茂→慶喜→明治天皇 |
藩 | 美濃国大垣新田藩主(三河国畑村藩主) |
氏族 | 戸田氏 |
父母 | 父:戸田氏正、養父:戸田氏綏 |
兄弟 | 氏彬、氏良、氏共 |
妻 |
正室:丹羽長富の娘 継室:万寿子(平野長発の娘) |
子 |
娘(戸田氏懿正室)、娘(池田政保継室)、 養子:氏懿 |
戸田 氏良(とだ うじよし)は、美濃大垣新田藩(三河畑村藩)の第8代藩主。のち美濃野村藩主。大垣藩戸田家分家8代。
生涯
天保10年(1839年)5月28日、美濃大垣藩の第9代藩主・戸田氏正の次男として生まれる。大垣新田藩の第7代藩主・戸田氏綏の養子となり、安政2年(1855年)5月21日、氏綏の死去により家督を継いだ。同年6月1日、将軍徳川家定に拝謁する。同年12月16日、従五位下、淡路守に叙位・任官される。
慶応4年(1868年)3月19日、上洛し、恭順の姿勢を示した。戊辰戦争では新政府に従い、北越戦争に出兵した。明治2年(1869年)6月2日、新政府から軍功として2000両を賜った。
しかし、大垣新田藩は特定の領地を持たない新田藩の形態を取り、なおかつ藩の運営を本家に任せていたため、実態のない藩として、明治2年(1869年)の版籍奉還で藩主氏良は藩知事に任命されなかった。
それに対し、大垣藩主戸田氏共は蔵米3000石に代わり、美濃国内に領地3000石を分割した。それにともない、明治2年5月27日、陣屋を三河渥美郡畑ヶ村から美濃大野郡野村に移し、名称を大垣新田藩から野村藩に改めた。さらに、7月までに藩士を移住させるなどして、城下町としての整備を行った。こうしたことを受けて、10月23日、明治政府は氏良を野村藩知事に任命した。
明治4年(1871年)7月の廃藩置県で免職となる。同年9月、東京に移住する。1884年(明治17年)7月8日、子爵を叙爵した[2]。明治25年(1892年)3月16日に死去した。享年54。
短歌に優れた歌人でもあり、「明治勅題歌集」54巻や「増補勅題歌集」47巻に氏良の歌が収録されている。
家族
父母
妻
側室
- 岡野氏
子女
- 戸田鈴子 - 戸田氏懿の妻、生母は岡野氏
- 銓子 - 池田政保の後妻、生母は岡野氏
養子
- 戸田氏懿 - 戸田光則の三男
脚注
日本の爵位 | ||
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先代 叙爵 |
子爵 (野村)戸田家初代 1884年 - 1892年 |
次代 戸田氏懿 |
固有名詞の分類
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