朝倉延景とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 辞書・百科事典 > 百科事典 > 朝倉延景の意味・解説 

朝倉義景

(朝倉延景 から転送)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/04/19 21:59 UTC 版)

朝倉 義景(あさくら よしかげ) は、戦国時代武将越前国戦国大名。越前朝倉氏最後(11代)の当主。


注釈

  1. ^ 『若州武田之系図』『武田系図』では若狭武田家の出身として記されているのは確かだが、父に関しては異なっている[3]
  2. ^ これは永禄11年(1568年)8月まで続いた。
  3. ^ この越前出兵は本来、足利義昭の意向を受けた若狭侵攻であったとする説[24]もあるが、この説を採ったとしても義昭の意図は若狭武田氏の再興にあったと考えられるため、義景が若狭から撤退しない以上、朝倉討伐に発展するものであったと言える。
  4. ^ 言継卿記』では越前衆5000余が討死して大敗としている[27]
  5. ^ この勅命講和は朝倉方を対象とせず、延暦寺だけに限定されていたとする指摘もある[30]
  6. ^ 『越州軍記』では「先ず、式部大輔景鏡、出陣あるべきの旨、義景宣いける処に、所労もってのほかなる由にて立たず。魚住備後守は、江州丁野の城の番手にありけるの条、人馬をくつろぐべしとて、是も立たず」とある[35]
  7. ^ このときの朝倉軍の潰走ぶりを
    「義景立出馬ニ乗玉ヘバ、右往左往ニサワギ、下人ハ主ヲ捨テ、子ハ親ヲ捨テ、我先我先トゾ退ニケル。此間雨降タル道ナレバ、坂ハ足モタマラズ、谷ハ泥ニテ冑ノ毛モ不見。泥ニ塗レテ足萎へ友具足ニ貫テ、蜘蛛ノ子ヲ散ガ如クシテ、其路五六里ガ間ニ、馬物具ヲ捨タル事足ノ踏所モナカリケリ。軍ノ習勝ニ乗時ハ鼠も虎トナリ、利ヲ失フ時ハ虎モ鼠トナル物ナレバ、草木ノ陰モヲソロシクシテ、シドロモドロニ退キケリ」
    と越州軍記にはある。
  8. ^ 「山の険阻を云ず馳重りける間、朝倉軍は或は谷へ堰落とされ、或は高岸より馬を馳倒して、其侭討たるる者もあり、唯馬具を抜捨て、逃伸とする者はあれども、返合戦はんとする者はなかりけり」(越州軍記)というような悲惨な状況だったと言われている。
  9. ^ 『越州軍記』には、この時の状況が、
    「義景15日に館へ入せ玉へば、昔の帰陣に引替、殿中粧条寂莫として、紅顔花の如くなりし上籠達も、一朝の嵐に誘はるる心地、涙に袖をしぼり、夜の殿に入せ玉ひても、外の居もなし。寝頭に星を烈し武士老臣も、満天の雲に覆われて、参する人独もなかりければ、世上の事何とか成ぬらんと、尋聞かるべき便もなし」
    とある。
  10. ^ ただし、これは三河物語のみの記述であり、肝心の朝倉側の資料にはこのような記述はない。

出典

  1. ^ 朝倉義景』 - コトバンク
  2. ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 23頁。
  3. ^ 水藤 1986, pp. 47–48.
  4. ^ 水藤 1986, p. 48.
  5. ^ a b c 水藤 1986, p. 49.
  6. ^ 水藤 1986, p. 50.
  7. ^ 水藤 1986, p. 53.
  8. ^ 宮永一美 著「戦国武将の養鷹と鷹書の伝授―越前朝倉氏を中心に―」、二木謙一 編『戦国織豊期の社会と儀礼』吉川弘文館、2006年。 
  9. ^ 水藤 1986, p. 225.
  10. ^ 水藤 1986, pp. 63–64.
  11. ^ 水藤 1986, p. 67.
  12. ^ 水藤 1986, p. 68.
  13. ^ a b 水藤 1986, p. 70.
  14. ^ 渡辺世祐「上洛前の足利義昭と織田信長」『史学雑誌』29巻2号、1918年。 /所収:久野雅司編著『シリーズ・室町幕府の研究 第二巻 足利義昭』戒光祥出版、2015年。ISBN 978-4-86403-162-2 
  15. ^ 水藤 1986, pp. 71–72.
  16. ^ 水藤 1986, pp. 73–74.
  17. ^ a b 水藤 1986, p. 74.
  18. ^ a b c 水藤 1986, p. 76.
  19. ^ 水藤 1986, p. 77.
  20. ^ 水藤 1986, p. 79.
  21. ^ 水藤 1986, p. 80.
  22. ^ 水藤 1986, p. 86.
  23. ^ 水藤 1986, pp. 86–87.
  24. ^ 久野雅司「織田信長と足利義昭の軍事的関係について」『白山史学』第53号、2017年。 /所収:久野雅司『織田信長政権の権力構造』戎光祥出版、2019年、137-140頁。ISBN 978-4-86403-326-8 
  25. ^ 水藤 1986, p. 88.
  26. ^ 水藤 1986, p. 89.
  27. ^ 水藤 1986, p. 96.
  28. ^ 水藤 1986, p. 98.
  29. ^ 水藤 1986, p. 100.
  30. ^ 桐野作人「志賀の陣 和睦の真相」『歴史読本』56巻7号、2011年。 
  31. ^ a b 水藤 1986, p. 104.
  32. ^ 水藤 1986, p. 112.
  33. ^ 水藤 1986, p. 113.
  34. ^ 水藤 1986, p. 116.
  35. ^ 水藤 1986, p. 117.
  36. ^ 水藤 1986, p. 119.
  37. ^ a b 水藤 1986, p. 120.
  38. ^ 桑田 1958, p. 25.
  39. ^ 宮本 2010, pp. 61–62.
  40. ^ 『完訳フロイス日本史3』54章(本来の第2部32章)
  41. ^ 水藤 1986, pp. 66–67.
  42. ^ 水藤 1986, p. 175.
  43. ^ 天野忠幸「等閑視されてきた信長以前の機内近国」『本郷』150号、吉川弘文館、2020年。 
  44. ^ 水藤 1986, pp. 170–173.
  45. ^ 水藤 1986, pp. 89–90.
  46. ^ 水藤 1986, pp. 98–101.


「朝倉義景」の続きの解説一覧



英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

朝倉延景のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



朝倉延景のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの朝倉義景 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。

©2024 GRAS Group, Inc.RSS