指導者・研究者としてとは? わかりやすく解説

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指導者・研究者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/27 03:35 UTC 版)

野口源三郎」の記事における「指導者・研究者として」の解説

野口指導者となった頃は日本語読める陸上競技指導書はほとんどなく、松本中ではマーフィーの本を片手に、指導者選手兼ねて日が暮れるまで生徒練習したアントワープオリンピック経験した後は国際的感覚身に付け以前増して物腰柔らかくなり、観察視野広がった研究成果がまとまると、すぐに本や論文にして発表することで選手便宜図り折を見て実地指導に出かけ日本中を飛び回り野口選手引退後現れ日本陸上競技選手はみな直接間接に野口薫陶受けたと言われる陸上競技講習会初め出会った織田幹雄とは終生交流があり、織田野口激励され続けていた。野口アントワープオリンピックから数えて17年後に日本陸上競技国際水準達すると予言し、この予言達成すべく選手育成努め、ちょうど17年後の1936年ベルリンオリンピック日本跳躍選手多数メダル獲得上位入賞果たし的中させた。 野口1歳年上である大谷武一とは互いに影響し合うライバル関係にあった大谷が主に「学者」として名を馳せたに対して野口スポーツマンスポーツリーダースポーツ評論家として活躍した野口大谷出会いは、野口東京高師入学した1911年明治44年)の新入生歓迎会の席で、大谷上級生代表として激励の言葉送ったときであった野口大谷葬儀において友人総代として弔辞読んでいる。河野一郎とは、野口体協理事退任する契機となる13問題激しく争った間柄であったが、紫綬褒章勲三等瑞宝章受章には河野の陰の力があったと伝わる。 自分厳しく責任感が強い人物であり、任務遂行のためには「執念」とも言えるほどの努力惜しまず何人にも妥協を許さなかった。安住の地あぐらをかくようなことはせず、常に新しいものを求めて前進続けたが、「野心家」という言葉似合わなかった。体育学の教員には自らを律して真剣に学問取り組むよう諭し自身講義15分以上遅刻した学生教室入れなかったという。野口師事しようとする者は誰でも受け入れ寛大な性格で、指導者としては極めて穏やかであった織田幹雄述懐しており、うまくできなくても悪く言うことはなく、「もう一度やってみたまえ」と優しく声をかけた。こうしたことから、一般学生からは「スポーツ選手には温情を示すが、一般学生には冷たい」と評されることがあったが、教え子今村嘉雄は「見当外れの評」と述べている。スポーツ社会学者の森川貞夫は、野口戦前戦中急進的な日本主義スポーツ論を展開した東京高師出身者の代表であるとし、戦後反省戦争責任自己批判をすることなく戦後体育スポーツ界君臨したことを批判している。 浅川正一野口禅僧たとえた穏やかに漂うスポーツマンシップ行政的手腕持った野口であったからこそ体協嘉納治五郎岸清一2代わたって会長補佐できた。嘉納会長時代体協は、大会開いて入場料徴収するという発想がなかったため経済的に困窮しており、野口頻繁に商人追いすがられた。そんな野口体育侮辱する者には烈火の如く怒り東京高師教授会の席で平然と体育侮辱した教授に対して体育侮辱するなら吾等の宝刀を抜く」と言って椅子振り上げた、というエピソードがある。これ以降教授会体育侮辱するような発言は出なくなったという。 野口研究成果陸上競技に関するものが多いが、学校体育にも強い関心寄せ学習指導要領掲げられた「社会性育成」という体育目標現場でどう果たされているか、指導要領水泳正課入っているが体育教師にその指導力が十分備わっているか、という研究課題実際学校現場に出かけて調査し解明している。野口スポーツ観は嘉納治五郎通ずるものであり、スポーツ通して人間形成をするというものであったこのためレクリエーションスポーツではなく教育的スポーツ重視しプロスポーツではなくアマチュアリズム説き運動選手身体強壮品行方正学業忠実遵守すべしとした。 また野口陸上競技研究は、原理研究批判というよりも、原理をいかに実践するかという研究であり、科学実践橋渡しをするものであった野口のこの研究態度東京教育大経て筑波大学陸上競技研究室引き継がれており、基礎科学とは異なる「まず実践」の精神生きている

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指導者・研究者として

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/05 09:32 UTC 版)

羽石架苗」の記事における「指導者・研究者として」の解説

クリスチャン・ブラザーズ大学卒業後、羽石テネシー州メンフィス所在メンフィス大学大学院入学し2005年修士号取得した同年マサチューセッツ州移りノーサンプトン所在スミス大学大学院入学同時に同大女子サッカー部アシスタントコーチ、および州内クラブチームウェスタン・ユナイテッドU-17およびU-18チームヘッドコーチ就任しサッカー選手サッカー指導者大学院生掛け持ちする生活に入った2007年2つ目の修士号取得した羽石は、マサチューセッツ大学アマースト校大学院博士課程入学した同時に同州サウス・ハドレー所在のマウント・ホリヨーク・カレッジに講師女子サッカー部監督として着任し体育教育学教え傍らサッカー部指導に当たるようになった2010年2月現在現在同大在籍中である。

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