指導者就任
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/03 14:22 UTC 版)
「ジョン・ロス (チェロキー)」の記事における「指導者就任」の解説
1818年11月、チェロキー族代理人ジョセフ・マクミンとの協議会前に、ロスはネーション議会の議長になった。ロスはこの職に1827年まであった。議会はアメリカ合衆国がチェロキー族の土地を割譲するよう要請してきているのを斥けるために必要な外交術をロスが持っていると考えたので、ロスを議長に選んだ。この任務でロスは議会を失望させなかった。マクミンはチェロキー族がミシシッピ川の向こうに移住することで20万ドルを提供すると提案したが、これをロスが拒絶した。 1819年、議会は再度ロスをワシントンに送った。ロスは指導層の中でも大きな役割を担うことになった。その代表団の目的は1817年条約の規定を明確にすることだった。代表団は、割譲する土地の上限を交渉する必要があり、残っている土地でのチェロキー族の権利を明確にすることを望んだ。当時のアメリカ合衆国国務長官ジョン・カルフーンはテネシー州とジョージア州の広大な土地を割譲するようロスに圧力を掛けた。このようなアメリカ合衆国政府からの圧力はその後も続き、強くなっていった。1822年10月、カルフーンは、1802年盟約におけるアメリカ合衆国の義務を全うするために、ジョージア州が権利主張する土地をチェロキー族が放棄することを求めた。ロスはカルフーンの提案に回答する前に、チェロキー族の人々の感情をまず確認した。彼等は異口同音に土地の割譲に反対した。 1824年1月、ロスはチェロキー族の土地所有権を守るためにワシントンに行った。カルフーンはチェロキー族代表団に2つの選択肢を示した。チェロキー族の土地を放棄して西部に移住するか、ネーションを解体してアメリカ合衆国市民になることを受け入れるかだった。ロスは、カルフーンの最後通牒を受け入れるのではなく、以前の交渉のやり方から大胆な飛躍を行った。ロスはネーションの不平を集めた。1824年4月15日、アメリカ合衆国議会に直接請願するという劇的な手段を採った。このことはインディアン・ネーションとアメリカ合衆国政府との間の伝統的な関係を基本的に変えるものだった。 それ以前にアメリカ合衆国議会に苦情を訴えたインディアン・ネーションは無かった。ロスの対応で、以前は従順なインディアンの請願という感じのものが主張する防衛者のものに置き換えられた。ロスは法的責任についての微妙なところまで白人と同じくらい論議することができた。この変化は、後の大統領ジョン・クィンシー・アダムズを含み、ワシントンの個々人には明白だった。アダムズは「同じ首長の自己紹介よりも、インディアン的でない修辞法であり、通常の白人の会話に近いものがあった」と記した。アダムズはロスの作品を「代表団の作家」と具体的に記し、また「ジョージア州の代表団に対して書面による議論をかなり優位に進めた」と述べた。ジョージア州の代表団は「ジョージア・ジャーナル」の論説でロスの交渉術を認め、チェロキー族代表団の文書はあまりに洗練されていてインディアンによって書かれるか或いは口述されたとは考えられないので、不正なものであると非難した。
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