指導者勇退
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/01 08:12 UTC 版)
渡辺の指導生活と常に隣り合わせだったのが自身の病気だった。1998年の春夏連覇以前にも胃潰瘍や心房細動を患ったことがある。涌井秀章らを擁し夏の甲子園出場する直前の2004年春には脳梗塞で倒れ、水泳やウォーキング等のリハビリと食事制限をするなどして体力強化を図った。 2013年の新聞インタビューで「10年、20年とは言わないが、(2018年の)100回大会まではやりたい。」と意欲を見せていた。 しかし、持病の腰痛やメニエール病が重なったこと、2014年夏に長年コンビを組んでいた小倉が横浜の指導を退任してから自身に精神的負担が掛かったこと、今までの疲労の蓄積で思うように体が動かなくなったこと、子供達と寝食を共にすることができなくなったこと、かかりつけの医師から引退を勧められたことなどを理由に、2015年5月14日に今夏の大会をもって監督を退任することが発表された。監督後任は教え子で部長の平田徹が、部長後任は同校出身で応援指導部団長を務めた経験を持つ副部長の金子雅が務める。 この退任発表に小倉は「渡辺だから、ここまでできたということもある。グラウンド以外の部分でも、いろいろと苦労があったから。」と渡辺を労っている。更に元々、一緒に辞めようと2人で話していたと明かし、近年は渡辺が「体力の限界だ」と漏らしていたとも明かしている。 注目された県予選はノーシードながらも勝ち進み、決勝戦まで進出したが、奇しくも監督就任直後からライバル関係にあった東海大相模に決勝戦で敗れ、半世紀近くの監督生活に終止符を打った。高校側は既に、渡辺の長年の功績から硬式野球部の終身名誉監督に就任する辞令を発表しており、後任監督のサポートに回る等して引き続き指導に当たった。2017年1月30日、終身名誉監督を退任したことが明らかになった。
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