夏の甲子園出場
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/03 07:44 UTC 版)
「青森県立木造高等学校」の記事における「夏の甲子園出場」の解説
1982年(昭和57年)8月、第64回全国高校野球で、当時市部以外からは初出場を果たし、現在も春夏通じて唯一の甲子園出場となった。外崎監督率いる木高ナインは同年8月8日の1回戦、後に西武ライオンズに入団する佐賀商・新谷博投手に、9回二死までパーフェクトに抑えられてしまう。しかし、27人目のピンチヒッター世永幸仁がデッドボールで出塁したため、なんとか夏の甲子園史上初の完全試合負けを阻止した(それでも最後の打者はセカンドゴロで試合終了、ノーヒットノーランでの敗戦となった)。この瞬間は伝説となり、たった1度の出場ながらも日本中に「きづくり」を知らしめた。
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