指導者無き教団
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/28 07:19 UTC 版)
「サンフランシスコにおける人民寺院」の記事における「指導者無き教団」の解説
ジョーンズがガイアナに出発してから時間が経つに連れて、サンフランシスコの信者の熱狂は、次第に殉教へと変わっていった。金曜日と日曜日の会合は未だに行われていたが、出席者数は減少していった。寄付金も減少し、教団は自身の資産を売却し始めた。人員が減少するにつれて、教団に残った信者達は過労状態に陥った。ギアリー大通りの教団施設は、最終的にジョーンズタウンへの物資の補給所へと変わったが、教団はプレスリリースで「我々はサンフランシスコやカリフォルニアから移転するつもりはない」と主張し、恒久的に移住するとしたニュース報道を「センセーショナルな偏向報道」と非難した。 サンフランシスコ・エグザミナー誌の様なサンフランシスコのメディアは、ジョーンズがジョーンズタウンからギアリー大通りの教団施設へ短波放送を用いて行っている通信を監視していた。それらの多くには、ジョーンズのいつものプロパガンダが散在する、ありふれた要求が含まれていた。サンフランシスコの人民寺院信者の多くは、連邦通信委員会(英語: Federal Communications Commission、FCC)が、人民寺院の無線免許を取り消し、ジョーンズタウンへのライフラインが切断されることを恐れていた。厄介なことに、ジョーンズは連邦通信委員会に1,500通、アメリカ合衆国内国歳入庁(英語: Internal Revenue Service、IRS)に1,500通の手紙を書く等の、現在の貧弱になった人民寺院信者達には不可能な要求を行っていた。信心が揺らいでいると判断された信者はジョーンズタウンへと送られることになった。その一方で、デイヴィスやヒューイ・P・ニュートンといった、ベイエリアの教団協力者達は、ジョーンズの過激な「白い夜」(英語: White Night)の集会中に、ジョーンズタウンの信者達に生のラジオメッセージを送り、信者達に「陰謀」に強く抵抗する様に伝えた。 教団は、チャールズ・ゲイリー(英語版)を雇用し、多数の訴訟で教団の代表者として活動し、情報公開法(英語版)に基づく請求の起草も行った。教団は更に、ジョン・F・ケネディ暗殺に関する陰謀論(英語版)者で著名なマーク・レーン(英語版)を雇い、ギアリー大通りの教団施設で記者会見を行った。 1978年10月、サンフランシスコの人民寺院側でリーダーをしているテリー・ビュフォードが亡命したが、この際、彼女は「ティモシー・ストーンのグループ」に潜入するための「二重スパイ」として隠蔽されていたと誤った主張をする一連の文章を書いており、教団に壊滅的な打撃を与えることとなった。ビュフォードは、ギアリー大通りでの交流中に出会ったレーンと秘かに親しくなった。
※この「指導者無き教団」の解説は、「サンフランシスコにおける人民寺院」の解説の一部です。
「指導者無き教団」を含む「サンフランシスコにおける人民寺院」の記事については、「サンフランシスコにおける人民寺院」の概要を参照ください。
- 指導者無き教団のページへのリンク